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第2話 眠らない夜の絡繰り人形(11)
シュアンとミンウェイの視線が交錯する。
綺麗な女だと思った。
切れ長の瞳に、通った鼻筋。艶めく唇。豊満な肉体は、しなやかな筋肉に覆われ何ひとつ無駄はない。――〈七つの大罪〉の最高傑作の血を持つ女。
闇の中で生きてきたくせに、光の存在を信じている。
綺麗すぎて、優しすぎて……愚かだ。
「ミンウェイ、あんたの気持ちはありがたいが、これはもう、詰んでいるのさ。だって、〈蝿〉と同じ思考を持つ『そいつ』は、約束を守るような奴じゃないだろう?」
言いなりになったら、骨の髄までしゃぶり尽くされる。そんな現実をシュアンは見続けてきた。
どんな正義も、喰われていく。
だからシュアンは、信じることをやめた。
だから無情な狂犬になって、愚か者たちが喰われる前に、喰い散らすようになった。
「約束しても無駄だって、あんたが一番よく、知っているはずだ」
ミンウェイは、何も答えられなかった。
もし、ここで彼女が何か言ったのなら、シュアンの心はひるんだのかもしれない。
けれど、彼女は目を伏せただけだった。
シュアンはミンウェイを退け、ローヤンに銃口を向ける。
「やめろ……!」
シュアンの暗い炎を前にして、ローヤンが初めて恐怖に声を引きつらせた。
「私を殺して、なんになるんだ?」
「悪魔のくせに、先輩の姿をしているのが目障りだ」
「まだ、元に戻る可能性が……!」
「そんな糞みたいなちっぽけな可能性にかけるほど、俺はおめでたくないのさ」
ローヤンの右手の甲に、ふたつ並んだ小さな黒子が見える。新人だったシュアンに、拳銃の構え方を教えた手だった。――よく覚えている。
こめかみに薄っすらと残る古傷は、凶賊の凶刃からシュアンを庇ったときのものだ。――忘れるわけがない。
目深な制帽の下で、シュアンの瞳が揺らぐ。それをこらえるように、彼は奥歯を噛み締めた。
引き金に掛けられたシュアンの指――死の淵を目前にした悪魔の金切り声が響く。
「私の体は、あなたの大切な先輩なんですよ?」
「あんたは俺の先輩なんかじゃねぇ。〈蝿〉という悪魔だ」
振り切るように、シュアンは言い捨てた。
「緋扇さん……」
ミンウェイが、シュアンの名を呟いた。
また止める気かと、辟易としかけたシュアンの目前を、銀色の光が走った。無影灯の光を跳ね返す、輝く残像。細く長い指先が、ワゴンに乗せてあったはずのメスを握っていた。
「私は〈ベラドンナ〉という名で、暗殺を生業にしていました」
ミンウェイが凪いだ瞳でシュアンを見つめた。人を殺すために、心を殺した少女の面影がそこにあった。
「私が請け負います」
ぞくりとするほど綺麗な顔の中で、彼女の赤い唇が死神の鎌の形に動いた。
彼女は手の中でメスを踊らせ、ローヤンの喉元に切っ先を向けた。
「……違うだろ、ミンウェイ。今のあんたは〈ベラドンナ〉って奴じゃないだろ?」
どこまでも優しい愚か者。精神が父親である責任と、肉体が先輩である不幸は、彼女のせいではない。
シュアンは、左手で抱きすくめるようにミンウェイの腰を引き寄せた。
「警察隊がこの屋敷を囲んだとき、一族を守るためにバルコニーから飛び降りてきたあんたは、格好よかったぜ? あれが今のあんただろ?」
「緋扇さん……」
「あんた、『緋扇さん』ばっかだな。俺の名前は『シュアン』だ。覚えろ」
そう言って、シュアンは口元を締めた。
「これは俺のけじめだ。――邪魔すんな」
迷いはない。
愛しい愚か者たちのために、シュアンは成すべきことを成すのだ。
「待て、まだこの肉体が元に戻る可能性が……!」
血相を変えて叫ぶ悪魔に、シュアンは冷たく言い放つ。
「悪魔の戯言は、もうたくさんだ」
『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』
先輩は秋に結婚するのだと、風の便りに聞いた――。
撃鉄を起こす音が、淡い緑色の壁に反射した。
そして――。
…………銃声……。
シュアンの右手が、力なく降ろされた。
拳銃が指から滑り落ち、音を立てて床を打ちつけた。銃口から、ゆらりと薄い煙が上がる。
左手がミンウェイの肩を捕らえ、すがるように抱きしめた。
ミンウェイの手も、そっとシュアンの背に回る。
互いの鼓動が感じられた。
体温には人を惑わす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己で、どこからが他者であるかの境界線を不明瞭にする。
感情が混じり合い、溶け合い、分かち合っていく。
彼と彼女の間には、情も、絆も――ましてや愛など存在しない。
それでも、熱を求めずにはいられなかった。
ひとりきりで抱えるには、重すぎる感情であったから……。
――先輩、俺、……本当はずっと、あんたと一緒に馬鹿な夢を追っていたかったんですよ……。
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