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二匹の猫
彼の訪れがふっつりと途絶えたのは、半年後のこと。
事情を確かめることはしなかった。
怖かっただけかもしれない。
やがて私は、高校三年生になった。
母の虚栄心は衰える事なく、私は塾通いを強制される。少しでも、偏差値の良い学校へ。
何者になりたいのかもわからずに目の前の事に忙殺される。そして、私自身も公園へ行かなくなった。
自分が自分として居られる場所を失って。
私はただの器になった。
器は注がれるだけの存在。
求められれば応じるだけ。
そうやって流された私は、誰とでも寝る恋多き女と言われながら、誰にも恋なんかしていなかった。
だって、所詮、浮気男の娘だし。
永遠の愛なんてありっこ無いし。
一方で、恋よりキャリアを重ねる私を、母はようやく認めてくれた。
自分が育て上げた芸術作品を鑑賞するような距離感で。
そんな母が、倒れて弱音を吐いた。
一緒に住んで面倒を見て欲しいと……
今更、あんたが敷いたレールを捨てろと言うのか。
いや、違う。
また、新たなレールを押し付けようとしているんだ。
四十歳直前の秋だった。
心の中の反発は結局なんの原動力にもならず、私はいつも通りの行動をする。
流される器。
流石に仕事は辞められなかったので、自分のマンションに母を引き取りリハビリ病院への通院の日々が始まった。制約の中での仕事。
ストレスマックスな日々。
そんな日々に立ち寄ってくれたのは———同じ男だった。
通い始めたリハビリ病院で、担当の作業療法士との打ち合わせ。
「これからよろしくお願いします」
頭を下げた私へ、恐縮したようなやや高めの甘い声。
「担当の高山航です。こちらこそよろしくお願いします」
高山航?
慌てて顔を上げて確認する。
ああ……変ってない。何歳になっても、あいつは童顔だわ。
経年の苦労の痕が残る皺を重ねていても、航はやっぱり可愛らしい顔立ちをしていた。その瞳に宿る寂しさも変っていない。
「航……」
突然下の名前で呼んだ私を、航も驚いたように見つめ返してきた。
「もしかして、岩瀬?」
ああ、そうだった。まだ苗字が変わったこと言ってなかったなと思いつつ、母の前ではそれ以上の会話は避けたかった。
「後で、少しだけお時間いただけますか?」
「わかりました。理学療法士のリハビリの間にでも」
ほんの少しだけ割いてくれた時間。
二人で見つめ合う。
こんな明るい光の元で出会う日が来るなんて、思ってもみなかった。
「……名前、違っていたから気づかなかったんだ。ごめん」
開口一番に航が言った言葉。誤解させたままにしたくなかった。
「結婚したわけじゃないよ。母が離婚して苗字が変わっただけ」
「……そう、だったんだ」
私を見下ろしながら、ぽつりと言う。
「綺麗になったな」
「ありがと」
こそばゆくなる。あの頃なら、照れて絶対言ってくれないような言葉をもらえて、ちょっと嬉しい。
「航は……どうしていたの?」
「悪かったな。公園……行けなくて」
「別に、約束していたわけじゃないし。誰にだって事情や都合があるし」
「じいちゃんとばあちゃんの具合が悪くなってさ。昼夜逆転とかよくあって」
ヤングケアラー。それが、あの頃の航の姿だった。
航の父親はだんだん家に帰って来なくなった。祖父母はどんどん年老いていく。
幼い頃の恩を感じていた航は、踏みとどまって面倒を見ていたらしい。
だが、老いの進む二人との日々は徐々に航の日常を奪っていった。
結局、高校もろくに行かれず、長い年月をかけて回り道の後に、今の職についたのだった。
「お陰で、家族とか結婚とかに憧れを持たなくなっちまったよ。長生きもしたくないしな。なのに……なんで、こんな仕事しているんだろうな」
その横顔があまりにも辛そうで、私は言葉を失った。
作業療法士。病や老いのために失われたり弱くなってしまった身体的機能を回復させ、日常生活の改善をサポートする仕事。
望まぬままにその青春の全てを捧げざる負えなかった介護の世界に、彼は今も居続けている。
人生なんてそんなもので、嫌だと思う物になぜか自ら近づいてしまいがち。
挙句逃れられないのもお決まりの展開。
私だって、このザマよ。
「でもさ、雨宿りで軒下を借りるくらいはいいんじゃないの」
「はぁ? 何言ってんだ。お前」
「ははは。何言っているんだろうね」
航は今も、ノラネコのような目をしている。
寂しくてしかたないのに、誰にも甘えられない。近づきたくてしかたないのに、近づくのが怖い。
温かさを求めながら、居心地の良い場所は落ち着かなくなる。
だから、いつでも逃げられる距離に佇んでいるんだね。
矛盾だらけ。
私も同じノラネコだけど、あんたにだけはその矜持を保つことが難しいよ。
神様がくれたこの再会は、一体どんな結末になるのかわからない。
あの時みたいに、またあんたは私の目の前からするっといなくなるんだとわかっているけれど。
一時だけでいいから、私の体を温めてよ。
お願いだから―――
「私の下の名前、覚えてる?」
「……梨花だろ」
「良かった」
意を決して、航の手を掴んだ。
夜の公園じゃ無くて、暗い都会の片隅へと誘う。
心配しないで。首輪なんかつけないから。
だって今度は……私が航を置き去りにする番。
母と言う枷を断ち切らぬ限りは、多分、きっと。
一番辛い時、姿を消す———それがノラネコの性。
共に居て欲しいなんて、口が裂けても言えないんだ……
完
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