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業務終わりの彼女は相棒をケースで背負って走っていた。楽団の練習日。それも特別。
「うちは正直言うと老人の暇つぶしに近いよ。演奏会だって年に一度だけ市民ホールを借りてで、定期なのは商店街とかだ。それでも良いのかい?」
彼女が楽団に入るときに言われた言葉。楽団とは名ばかりな印象もある集まり。老人が多くてお世辞にも上手いとは言い切れない。だけど、彼女を取ってくれる楽団なんて他になかった。
コンクールには参加するのがやっと。受賞なんて夢。音大も滑り込んだ。そんな彼女は普通に会社員となっても音楽の道を捨てたくない。彼を追い掛けるのを辞めないためにこの楽団に参加していた。
その楽団のただ一つの晴れ舞台。市民ホールでの演奏会のゲネプロ。会場を借りられるのは演奏会とこの機会だけ。彼女は彼を追い掛けている音楽でも真剣に向かい合っていたから、この練習は外せない。
「そんなに急がなくても間に合うよ」
トロンボーン担当のおじいさんに道すがらに有った。
「会場の様子を確認したいんです。時間貸しの一秒でも練習したいんで」
ちょっと重そうにケースを持ってるおじいさんを置き去りにして彼女は走った。
おじいさんが微笑ましく眺めると「ごめんなさーい! 運ぶの、手伝えなくてー」と遠くなった彼女が手を振っている。
「急ぎなさい。もう時間だよ」
自分のことは気にしないで良いからとおじいさんが手を振り返す。楽団が予約していた時間が訪れていた。
「持ちましょうか?」
二人の会話を聞いていたのか親切な男の人がおじいさんに声を掛けていた。帽子を目深に暗い印象の有る人。
「こんにちはー!」
ホールのラウンジに楽団のメンバーが半分くらい集まっていた。もう時間だと言うのにこれだ。
彼女は挨拶を交わしながらも団長に「もうホールのほうも良いんですよね?」と聞くとペットボトルのお茶会を開いていたおじいさんがにこやかに頷く。
街の市民ホールは音楽演奏の場として悪くない。席数は多くはない施設だけど、音楽用に設計されているホールは響きはとても良いと評判で、有名音楽家も好む会場だった。
「これは楽しくなりそうな気しか無いよね」
基本音楽を愛しているから軽くこんな風に語っていた。その彼女は団長の許可を得て壇上に立っている。
見るものが憧れ。彼女は彼を追い掛けているうちに音楽をこよなく愛していた。
「こんなところから見物しなくても良いんじゃないですか?」
遠く舞台を確認できる音響室でこのホールの館長が声をかけていた。
「眺めは悪くないですよ」
答えたのはさっきおじいさんを救けた男。今は彼女のことを眺めていた。
彼女はそんな人たちが居るなんて壇上からは見えないようになっているので気付かない。そしてサキソフォンを取り出して音を響かせた。
ホールの音響を確かめるように一音ずつ鳴らして、音楽に繋げる。今回の公演で予定されている曲を続けた。
「それなりの腕ですね」
館長も耳が肥えている。ホールは有名音楽家に愛されているから当然だろう。
「でも、楽しそうですよ。ホラ」
男が語ると、彼女は音調を急に軽やかに弾ませた。さっきまでとは違って流行歌なんかを奏でる。その時にはクラッシックには似つかわしくないが、その曲には合っている振り付けも存在した。
批評されているなんて思ってもなかった彼女は十分に楽しんでいるみたい。また曲調に違いがあって、今度はジャズが始まる。
「こっちのほうが彼女に合ってますね」
にこりと笑っている口元だけを見せて男が語ると。館長も頷いていた。
「クラシックでは平凡。だけど、こっちならまだ伸びしろは有りそうだ」
館長の言葉に男が嬉しそうに微笑んでいた。
「それに。美しい。彼女の音楽と、音楽を愉しんでいる彼女が美しい」
男は館長と話しているが、その瞳はずっと彼女だけを見つめていた。
「恋ですね」
呟いたのは館長だったが、男にはもう聞こえてない。彼女の音楽に飲み込まれてしまっていた。
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