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あんなに追い続けてたその人。
楽しい音楽と逢わせてくれた人。
世界で一番好きな人。
「憶えてる。久し、振りだね」
ちょっとたどたどしく彼女が視線を合わせられないように話し始める。
「うん。久し振り。今の演奏良かったよ。即興?」
彼が親し気に数歩近付いて話す。その時に彼女は自分の鼓動の音が彼に聞こえるんではないかと心配してしまっていた。
もう彼には手を伸ばせば簡単に届いてしまう。ずっと追い掛けていたのに。側に居ると彼女は困っていた。
「君にはクラシックよりそんな音楽のほうが合ってるのかもね。今度親しみやすい音楽の演奏会企画が有るんだけど、参加してみない?」
彼の語ったことは彼女にとってとても嬉しい申し出。二つ返事で応えたいくらいだった。
「私なんかで良いのかな」
ちょっと不安な部分も彼女にはあった。それは自分のこれまでの経歴。とても彼みたいな人と一緒に居られるレベルではない。
「君にお願いしてるんだ。ずっと知っている君だから」
彼女の心は簡単に晴れてしまった。このチャンスを逃す理由なんてない。音楽としても、彼のことに関しても。だけど、他の疑問も浮かんだ。
「じゃあ、こっちからお願いしたい。よろしくお願いします」
「良かった。断られたらどうしようかと思ってたんだ」
深々と礼をしながらの彼女の言葉に彼は本当に安堵した表情になっている。
彼はとても気さくな話し方になっているが、彼女は違う。明らかに丁寧になっていた。
昔の知人で同級生だけど、今は住む世界が違う。彼女はそう思っていた。改めて会ってみるとその差を思い知らされるみたいだ。
「もしかして、私の友達からなんか言われた?」
考えてしまったのは友人のこと。あれだけ奮起していたからもしかしたらなんて思ったので、確認は必要。そして、本当にそうだったらお詫びも、と彼女は思っていた。
「うーんっと、昔っから仲の良いあの人のことだよね。残念ながら全然。俺とは繋がりがないから」
流石に彼女の取り越し苦労になっていた。
しかし、友人の行動力は二人の知らないところで発揮されていた。友人は彼の知人を探しまくってどうにか連絡を取ろうとしていた。でも、彼には元々友達も少なく見つけられなかった。でも、諦めないで友人は彼の所属事務所まで連絡していたが、単なる同級生が簡単に連絡をつけられる訳がない。
はからくも友人の作戦は有効に機能しないで、それでも二人の再会が叶った。彼女からは運命や追い続けていた効果だと思っている。
「違うんなら良いんだけど。そうなると、今日は偶然なのかなって」
やっと彼女のほうも言葉はテンポ的にもかなりフランクになり始めた。けれど、雰囲気はまだよそよそしい。けれど今の彼女ではこれが限界な部分もある。
「今の、知らない人にと話してるみたいなのを終わらせて」
雰囲気をすらと察すみたいな想い届ていた。彼女もこんな印象を与えたくない。少なくとも昔はもっと軽く話せていたと思う。
「うん。そうだね。だけど、君は私たちとは違う世界の人みたいなんだもん」
ちょっとだけ直してみた。言葉もさっきより随分と彼女は親し気にしている。
だけど、彼は難しい顔になっていた。彼女はまだ他人行儀なのかと考えてしまうくらいに。
彼の考えていたのは違うことだった。
「俺は、頑張ったんだ」
「うん。知ってる。だから今の君があるんだよ」
こんなのは彼女にはわかっていた。彼が音楽が好きで、それで頑張ってこんな立場に居るんだと。追い掛けて届かないでいた彼女だから痛いほどにわかっていた。
「頑張れたのは君のおかげなんだよ」
昔っから伏し目がちな彼は顔を上げて彼女を眺める。
「私の?」
そんなことを言われても彼女はとんと意味がわからない。当然だろう。
「君のことを追いかけてたんだ。音楽が好きな君だから。この道を進んで自信が付いたら、君に似合う男になれるって思って」
なんだか話がおかしな方向になっている。彼女もそれを理解して心拍数を上げ、キョドっていた。
「ずっと君のことは知ってたんだ。音大に進んだのも、楽団に入ったのも。ちょっとストーカー臭いかな。だけどやっと君に会おうって思ったんだ。ずっと昔から好きだから」
彼女の理想だった。こんなことになることがずっと夢だったんだ。それが今現実になっている。告白をしているのが自分じゃない小さな違いだけ。
その時に彼女は涙を流してる。
「ありがと、嬉しいよ」
次から次へと流れる涙を拭って彼女が答える。
彼が安心した表情になった。恋の終わりも彼は予想していた。違ったことの喜びの笑み。それは昔の彼の顔がひょっこりと表れている。彼女の好きな彼だ。
「昔、告白を受けたとき。嬉しかったんだ。けど、あの時には今日にでもって留学の話があったし。君に俺は似合わないって思って」
告白が成就しなかったのは、こんな理由があった。自信がなかったのは彼女じゃなくて、彼のほう。
「だからって断らないでよー」
泣きながら甘えている彼女の言葉。やっと昔の印象が戻る。
「断るつもりは無かったんだけど、話の途中で君が居なくなったから」
あの時彼はちゃんと「留学から戻ったら」と伝えようと考えていた。だけど、彼女が直ぐに逃げてしまっていたので叶わなかった。
それを今頃になって知って、彼女は落ち込む暇もなく笑う。自分たちはずっと想い合って、追い掛けて同じ道を進んでいたのだと。
「もう時間だ」
嬉しいばかりの時間が終わろうとしている。ゲネプロの予定時間はとっくに過ぎてた。
「今度はちゃんと客席で聴くよ」
時間が終わる筈なんてない。これからだっていつまでも続くのだから。
「もしかしてさっきの練習も聴いてた?」
「もちろん!」
「うわー、どーしよー」
もうたどたどしさなんて無くなっている。彼女の良いところ。彼の好きな部分。
「さあ、愉しい音楽の時間だよ」
「うん。音を楽しまないとね!」
彼女はサキソフォンのケースを背負って走る。だけど、数メートル進んだところで彼のほうに振り返った。
「まだ君を追い掛けるからー」
笑顔で手を振っていた。彼女には涙より良く似合う。
「俺もずっと追うよ!」
彼のほうも手を挙げて応えている。
「共に最高の音楽の道を進もうね」
グッドサインと一緒に彼女が語った言葉に彼はにこやかな表情になる。その姿を見て彼女はちょっとだけ頷いてまた走り始めた。少しスキップを含めてる。
「続くのか」
語られた嬉しさを含めてる言の葉を心と宙に置く。
おわり
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