「月が綺麗ですね」

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「……今日は、もう寝るから」 ──しなやかな指が、こちらに向けて伸ばされる。 無骨な手とは程遠い華奢なそれが屈み込む俺の頬に辿り着く前にやんわりと空を掻いた。整えられた爪の先が静寂を裂き、空隙に無情な言葉を埋め込む。 「……そう」 時が経つのも忘れ、夜更けまで顔を見合わせて密かに語らったのはいったい何年前の事だろうか。今は肌を刺す沈黙に耐えかね、顔も見ず互いに逃げるように寝所へ向かうばかり。気持ちが尽きたわけでもなく、顔を見るのも嫌だというわけでもない──ただ、二人の間に確かな存在感をもって鎮座している、沈黙が怖かった。 「……じゃあ、おやすみ」 「おやすみ」 彼女が部屋に戻る音を聞き届けてから俺も自室に足を向けた。見慣れた光景の中では青白い蛍光灯の明かりが、影をもってたゆたう夜の空気のことを一片たりとも許さないように静かに照らしている。 「……ん?」 ……スマートフォンに、一件の新着通知の表示がある。 見ればそれは、彼女からのメッセージだった。 「口で言えば良いのに、」 堪らずそんな不満が口からまろび出る。交わす言葉は減ったとはいえ、同じ住まいの中で暮らしている者同士なのだ。何故こんなにも他人行儀なことをするのか──考えれば考えるほど、腹立たしさを通り越して虚しくなる。何の為に共に暮らすようになったのか、これでは分からない。 「全く……」 ──開いてみれば送られてきたそれは、短い動画のようだった。再生の矢印に従い画面をタップする。 『──見て、みて。見えてるかな。今日は月がとても綺麗だよ』 最初に映されていたのは、彼女の部屋の窓の外から見える夜の景色。鈍色の空には大きく真白い月が輝いており、煌々と眼下の景色を照らし上げていた。 『最近は君と話すことも減ってしまったけど、初めて二人で出掛けた時に貰ったぬいぐるみはずっと大事にしてるんだ──ほら、これ。結構くたびれてきてるけど、まだまだ可愛いままだよ』 ……動画の中の景色が揺らぎ、次に映されたのは小さな兎のぬいぐるみ。俺も見覚えの有るそれは、初めて二人で遠出をした時に彼女に買ったものだった。今でも大切に持っていてくれたのだと思うと胸に込み上げてくる熱いものを感じる。視界が潤むのを堪えるようにぐっと奥歯を噛み締めた。 『最近はこの子にずっと悩みを聞いて貰ってるの。ああ、いやでも……君が頼りないとかじゃないから安心してね?君は格好良くて、この子は可愛い友達』 ──そう。彼女はどこか夢見がちな節も有った。本が好きな夢想家で、暇さえあれば「知らない世界に旅に出たい」と常々口にしていたのだ。今やその一言すらも聞けなくなってしまった自分が居るのかと思うと、ひどく情けない気持ちになる。 彼女は楽しそうに語る。 『この子は、私達のことを昔から応援してる親友』 『私達のことを見つめてきてくれた』 ぞ、っ。 ……何でもない、言葉。人形が昔から俺達のことを見守ってきてくれたという比喩。ただそれだけのはずなのにシャツから覗く両腕にはびっしりと鳥肌が浮かんでいた。急に部屋の気温が下がった気がして、スマートフォンを持っていない手で片腕を摩る。 画面越しの彼女は、愛らしく微笑む。 『喧嘩をした時も、馬鹿やって笑ってた時も、』 『ずっと見守ってくれたんだよ』 そうして愛おしげに兎の人形を撫でる──その手付きに呼応したか、兎の人形の眼が月明かりに照らされてぬめるような赤い光を放った。 そして。 彼女は優しく告げる、忌むべき優しい真実を。 『私達の間で、 ずうっと、見守っていてくれたんだよ』 その時に──……ストンと腑に落ちた。 ──ああ、やっぱり。 二人の間には、確かに『居た』んだ。沈黙が罅割れてしまわないように、ずっと、じっと、息を潜めて。 「──……?」 ……そこでふと、疑問が頭を過ぎる。 「──満月って確か、一週間くらい前じゃなかったか?」 思案に耽る俺を他所に、動画がリピート再生になる。 また、彼女が笑う。 動画の中の兎が嗤う。 『見て、見て、見えてるかな。 今日は月がとても綺麗だよ』 ──この動画を送って来たのは、誰だ?
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