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鶴野記者の恩返し
むかしむかし、ある新聞社に恩河瑛士という58歳の編集委員がいました。最近は出稿量も減り、記事といえば週1回のコラムのみです。「あの人の記事は1本20万円だ」と年下の社会部デスクからは陰口を叩かれ、人事からは「60歳から嘱託社員に」と先日宣告されました。
昭和63年。華のバブル入社組の輝きは今は昔。記者採用の100人超の同期の多くが転職し、この会社を去りました。今は、定年退職までのあと数年をどう過ごすかばかりを考える日々です。
「この雪のように俺の人生プランも白紙だな」
恩河は自嘲し、編集フロアから粉雪舞う東京のビル群をぼんやり眺めていました。
その時です。
「お前、何度言ったら分かるんだよ!」
恩河の鼓膜を怒声が揺らします。声の方を見ると、なんと例の年下の社会部デスクが女子大生アルバイトを詰めていました。しかも、その理由は仮刷りを置いた向きが曲がっていたという些細なことです。
そうです。このデスクは立場の弱い者を罠にかけて叱るのが大好物です。締切を過ぎても原稿が来ない苛立ちを彼女にぶつけていました。
編集フロアの空気は既に外気さながらにキンキンに冷えています。
整理部員達は、サバンナの小動物の如くひょっこりと机から顔を上げて傍観。校閲部員達は、意味もなく手元の用語集のページを捲っています。他部のデスク達も腕組みして眉間に皺を寄せるだけで、見て見ぬふりです。新聞社では部署が違えば国が違います。勝手に国境は跨いではいけないのです。
泣きながら許しを乞う女子大生の光景に恩河は心を痛め、動きます。
「君、やめなさい! 彼女が可哀想じゃないか!」
恩河は社会部の島まで行くとデスクを叱責しました。彼女を救ったのです。
社会部の島を辞去する際、女子大生は恩河の背にそっと言いました。
「この御恩は決して忘れません」
翌春、恩河は59歳となりました。
「あの人のコラムはコタツ記事レベルなんだよ」
年下の社会部デスクの陰口は、あの事件以来さらに酷いものになりました。
そんな時です。人事部長直々に連絡が来ました。なんと「研修の一環として、新人記者の1人を育ててほしい」というのです。
週明け、早速、その新人がやってきました。風貌を見た瞬間、恩河の片眉はピクリと上がります。
栗色の髪。ギャルメイクとでも言うのでしょうか? 化粧もかなり濃いです。
「鶴野っす。編集委員さん、よろしくっす。今日もバイブス上げていきましょう!」
言動も完全にパリピ系女子です。
しかし、見た目で人は判断してはいけません。この鶴野記者は非常に優秀でした。コミュニケーション能力に長け、取材先の評価も上々。原稿の筋も悪くありません。
「記者は足で書くもんだ」
新人時代の先輩の言葉が恩河の胸に去来しました。
鶴野記者に同行する形で、数年ぶりに朝回りもしました。がむしゃらだった新人時 代の原点に立ち返る思いでした。
何よりも、記者という仕事にワクワクしている自分に気付きます。
「これ、めっちゃ面白いじゃないですか。本当に恩河さんが書いたんですか?」
週1回のコラム原稿を出稿した際には、冷え切った関係だった社会部デスクから久しぶりに褒められました。
「これ、コラムはやめて、前面のネタとして出稿しませんか?」
電話越しでも前のめりなのが分かります。
数日後の朝刊。編集局長の鶴の一声で、何と1面トップ記事に採用されました。1面トップなんて何年振りでしょうか?
鶴野記者への教育を通して、恩河は躍動し、どんどん筆が乗っていきます。
「あの人の記事は1本20万円以上の価値がある」
ついには社内での評価が一変しました。
6月某日。恩河は有名温泉地に1泊2日で企画取材に出かけました。
「文字起こしはあたしがやっておくんで、編集委員さんは休んどいてください」
鶴野記者は旅館の主人へのインタビューの文字起こしを買って出てくれました。
「決して部屋をのぞかないでください」
そんな言葉を残し、恩河の隣の自室へと入っていきました。
美味しい料理を食べ、温泉に浸かり、充実感を胸に抱いて、その日は21時に布団に入りました。
キートンカラ、キートンカラ──。その夜、深い眠りの中にいた恩河の意識にじわりと何かが侵蝕してきます。
恩河は目を覚まします。床が揺れていました。
そっと自室の襖を開けて廊下に出ます。音の震源はなんと隣の鶴野記者の部屋です。廊下にまでその音は漏れています。それと同時に気付きました。音はキートンカラではありませんでした。
ジャンボ〜リミッキ🎵ジャンボ〜リミッキ🎵
そうです。これはジャンボリミッキー!です。先日、孫娘とディズニーランドに行った際に見たあの不思議な踊りの曲です。
それにしても、この大音量は他の客にも迷惑です。
コンコン──。襖をノックしますがダメです。
「鶴野記者ァ⁉︎」
廊下から呼びかけてみます。やはり反応はありません。バイブス全開と言った様相で、ジャンボリミュージックは鳴り続けています。
これでは埒が明きません。他の客を起こしてしまうかもしれません。
「開けるよぉ!」
恩河は襖に手をかけると勢い良く開けました。
そこにいたのは……浴衣をまとった見知らぬ女です。バッチリパリピメイクの鶴野記者はどこにもいません。
──まずいっ! 部屋を間違えたか?
そう思い、一歩下がって、上を見ます。
絹の間──。間違いありません。ここは鶴野記者の部屋です。
女はジャンボリポーズのまま、驚愕に目を見開いて固まっています。
再び女に目を凝らします。
「あっ……」
その瞬間、電撃が頭を貫きました。
──こ、この女性を私は知っている。確かあの時の……。
女は観念したという表情に変わります。その場に正座しました。
「はい。私は半年前、社会部デスクに詰められているところを助けていただいたあのアルバイトです。恩返しをさせていただきたく、就活中にセクハラしてきた人事部長を脅して、あなたを教育担当にしていただきました」
それから額を畳に擦り付けるほど頭を下げてから告げました。
「ですが、正体を知られたからにはもう近くにはいられません」
そう言うと、荷物をまとめて、出て行ってしまいました。
「ま、待ってくれ」
恩河は慌てて後を追います。
──やっと仕事が楽しくなってきたんだ。編集委員として、いや記者としての誇りを取り戻したんだ。
が、旅館の外に既に鶴野記者の姿はありませんでした。漆黒の闇が広がるのみです。
「鶴野記者ァ!」
恩河は叫びますが、返答はありません。その時です。
キュキューン──。夜空の彼方から甲高い鳥の鳴き声が聞こえました。
──んっ? 鶴?
不思議に思いましたが、その鳴き声は何故か包み込むような優しさを感じるものでした。
恩河は空を見上げて、拳をギュッと握り、呟きました。
「俺はまだまだやれる」
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