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この頃の己れというものは、いったいぜんたいどうしてしまったのか、焦燥に焼かれながらも何をするでもなくお空の青いや星々を眺めるばかりで、ただ、寝て起きて三度の飯を食べ、その後に決まって大きな欠伸をすることだけはきっかりとしている。
ろくすっぽ定職に就いていないこの身の上で、更には日銭を稼ぐための努力もせずにぬくぬくとしているなどと、己れの奥方はさぞかし井戸端で具合の悪い思いをしていると思うのだが、あれは実に出来のいい女房で、夕餉のときに窺うように見ても、そんなことはおくびにも出さずに、今日の空はいかがでしたか、などと聞いてくるのだ。
そうなれば己れの口はよく動いたもので、まるで赤べこのように軽やかに頭を上下させる愛妻の動作も相まって、眠くなるまで話すこともしばしばあった。
ねえ、あなた。もうペンはとらないのですか。
空を眺めてばかりいる空っぽの心を見透かしたように、ある日の女房がそう言い放ち、それはまったく青天の霹靂のように、己れの体を芯から震わせた。
何かと理由を付けてペンを握らなくなってから、それはもうどれだけ星が回り霜が降ったことだろう。己れの書く物語は、どこの誰それに酷評されたということも、誰かに筆を置けなどと脅迫されたこともない。誰が悪いわけでもなく、当然、悪者など誰もおらず、つまるところは、老いの幻想に囚われて手前が勝手に筆を置いただけのことである。
家内の問いには、うん、と小さく頷いた。あれのことだから気がついてはいるのだろうけれど、人の意見で今までの己れを欺くことが、どうにも許せないのだ。実に下卑た性根である。
さて、家内にばれないよう、夜ごとにペンを握り締めて書いた小説は、しかし、突然に長編など書けるはずもなく、だが、自画自賛できる内容にはなったと思う。
そうとなれば、とうの昔に忘れてしまった青雲を見る青い書生の真似事などして、この魚尾の群れを出版社に持ち込まなければなるまいと、引き出しの奥で遺物のように眠っていた名刺を発掘した。それには、ペンを置く前、最後の最後に担当していた古井という男の名前が書かれていた。
ちょいと散歩に行ってくる。
そう告げて家を出て、家内に内緒で件の出版社を目指す。
いつもなら谷中の家から日暮里駅まで出るところだが、今日の天道は、この世のものとは思えないほど、いやに高く実に青々しい。根津を抜けて不忍池を左手に歩き、湯島の天神様の横を挨拶もせずに素通りし、秋葉原、万世橋、神田、そして日本橋と渡るのも悪くはないと、そのままえいやとばかりに進むのだ。これから出版社と戦うその道に、何を恐れるものがあろうかと。
それにしても家内とはもう随分と長い付き合いで、まだ女学生だったあれが、当時、己れが住んでいた弥生町のぼろアパートに訪ねてきたときには、心臓が口から飛び出すほど驚いたものだった。
新田先生はこちらにいらっしゃいますか。
あのときのことは今でもきっかりと覚えている。ろくに鍵もかからぬ木戸をノックもせずにバタンと開けて、叫ぶように質したのだ。すわ押込み強盗かと思って見遣れば、昔のあれは紅藤の銘仙がそれは似合う娘でね、品の良い顔立ちが着物と同じ頬をして仁王立ちしていたのだった。
新田は己れですが、いったいぜんたいどのようなご用件で、あなたは浅草寺の仁王様のようにこちらを睨んでおられるのでしょうか。
己れがそのように質し返せば、あれは目に突き刺さらんばかりの勢いで本を差し出して、新田先生のファンです。是非ともお話を聞きたいと居ても立っても居られずに来ましたと気炎万丈に言うのだ。
その当時の己れはやっと本を1冊出せたくらいのひよっこで、ファンという言葉に天井まで舞い上がり、偉そうに講釈などを垂れたものだったのだが、あれはあのときから己れの話を実に楽しそうに聞いてくれたもので、先生はきっと売れっ子になるに決まっていますなどというものだから、益々浮かれて、収入もないのに逢瀬を重ね、三顧の礼をどこかの殿様の行楽の弁当のように重ねて、籍を入れたのだった。
その時分はもう、暮しの手帖やあちこちで洋服の裁縫が載っていた頃だったから、銘仙を着ているのも珍しく、またいきなり知らぬ男の部屋で大声を出すなど、実に珍奇だと思ったものだが、己れも己れでこう言ってはなんだが変わり者であることは自覚しているのだから、存外に良い巡り合わせだったのかも知れないと思っている。
暮しの手帖と言えば、あそこは神田にオフィスを構えていただろうかと、そんなことを考えながら、麒麟の横を通り、高島屋を横目に眺め、京橋を過ぎて首都高速道路をくぐれば、そこはもう出版社のある銀座である。
いつか世話になった伊東屋を懐かしみながら歩き、時計台に行きついたあとは、本通りから外れて、喫茶店などが多い昔からのオフィスビル街を歩いた。やがて一際年季の入ったペンシルビルを見つけて狭い階段を上ると、遠慮がちに新古出版と書かれている今時珍しい曇りガラスの扉に行き当たる。
やあ、ここだ、と久し振りに中に入れば、忽ちのうちにインクと紙の匂いが鼻腔に充満する。狭いオフィスを見渡せば、奥にビルと同じくらい年季の入ったのが一人、そして手前に若い男が一人。
年季の入ったのが己れを見つけて席を立とうとしたが、都合悪く黒電話のベルが鳴り、橋本君対応よろしくと若者に言い、自身は受話器を取ってしまった。
「はい、いらっしゃい」
気怠い顔を正そうともせず、浮薄そうに若者が言う。
「新田という者だが、今日は見てもらいたい原稿があってね」
「あ、原稿の持ち込みっすね。いいっすよ、どうせ暇だしw 僕が見るっすよ。媒体はなんすか? メール? USB?」
「ばいたい、ゆーすびーだと。何を言っているのかさっぱりだが、原稿と言えば紙に決まっているじゃあないか。君は本当に出版社の人間なのかね」
「あー、はいはい。紙っすね。大丈夫っす。ワイ、そういうのも嫌いじゃないっすw じゃ、新田先生はそちらでおかけになってお待ちください。ちょっぱやで読んじゃうっすからwww」
「よろしく頼む」
二つ折りにした2㎝弱の厚みの束を彼に渡すと、表情を崩すことなく席に戻り、己れは勧められたままに、やはり年季が入ってところどころ風合いの変わった革張りのソファーに腰かけた。
4万文字にも満たない原稿である。嗚咽のような声を漏らしながら読み進める先ほどの若者とて、いや、橋本と言ったか。橋本なにがし君であろうとも、すぐに読み終わるはずである。元より用事などないのだから、気長に待とうと腹を決めたが30分も経たずして、向かいのソファーにどっかりと腰を下ろした彼が開口一番に言ったセリフは、「こんなんじゃ駄目っす」だった。
久し振りに書いたとはいえ、目の前の浮薄な若者に軽薄に全否定されれば、いかに年月を得て棘がすっかりと削れて丸くなった温厚な己れと言えど、怒りの炎を上げざるを得ず、ついつい怒鳴ってしまう運びとなった。
「どこが駄目だというんだ。言ってみやがれ、この小童が」
「ちょ、ま。まず、文章が古臭すぎますねー。これじゃ、誰も読めませんw」
己れが気炎を上げたせいか珍妙な話し方は鳴りを潜めたが、それだとて文章が古臭いなどと言われてしまえば、怒りが収まろうはずもない。
「鏡太郎先生から薫陶を賜った己れの文章が駄目だってえ言いてえのか。出版するたび、女学生がこぞって飛びついたこの己れの文章が」
「鏡太郎先生っていったい誰って話ですよw こんな文章で、しかも家族愛なんてテーマじゃ、全女学生、草生えますよw しかも女学生w 女学生ってw まじwやばたにえんwww」
同じ言語を話しているはずなのに、もうこの若者には何を言っても通じないのだと思えば、一旦は哀れに思い、しかし師匠までをも馬鹿にされた怒りの矛はやはりどうにも引っ込めることが出来なかった。
「己ればかりか鏡太郎先生までを馬鹿にするとは、こん畜生めえ。やいやいやい、表へ出ろい。今からお前をす巻きにして、玉川上水に投げ込んでやらあ」
「ひ……ぴえん」
「まあまあ、新田先生。それだけはご勘弁下さいよ。ほれ、橋本君、席に戻りたまえ」
気付けば奥にいた男が、いつの間にか隣に立っているではないか。しかし、どこかで見たことがある顔だと思えば、右手の拳をぽんと左の掌に軽く打ち付けた。
「ああ、君は古井君か。随分と久しぶりだね」
「どうもお久しぶりです、先生。先ほどはうちの若いのが至らず申し訳ありませんでした」
「いや、なに。己れの方こそ、あの頃は急に引退などと言って、君には随分と迷惑をかけたんじゃないかと気に病んでいたのだが、息災にしていたかね?」
「ええ。今、こうしていられるのも先生のお陰です」
「そうかそうか。お互いに随分と年をとったもんだが、それなら良かった」
「それで先生。お預かりした原稿なんですがね」
「おお、もう読んでくれたのか。で、どうだった?」
「それはもう、家族の愛情が滲み出ていて大変すばらしいお話でした」
「そうだろう、そうだろう。やはり読むべき人間が読むと分かるものだな」
「けれど、先生」
「やはり何かあるのかね。君と己れの仲だ。遠慮なく言ってくれたまえよ」
「お話は素晴らしいのですが、文章が今の人間には読み辛いのです。これは如何ともしがたく、当社からは出すのは難しいと言わざるを得ません」
「むむ、そうか」
「しかし、そこだけなのです。そこさえ直せば良いのです。新田先生ならばきっとできると、そしてその暁には大ヒット間違いなしと、わたくし、確信しております」
「うむ、うむ、君がそう言うのであれば間違いないのだろう。あい分かった。この新田、この原稿を必ずや大ヒット作に変えてやろうじゃあないか」
「ええ、お待ちしております」
「また来るぞ」
「原稿は8月16日までにお願いしますね」
こうして己れは戦に勝ったような気分で意気揚々と引き上げたのだが、はて、なぜ8月16日までなのか。昔、聞いたことがあったと思うが、この頃はどうにも思い出せないのである。思い出せないものをくよくよと悩んでいてもしようがないと、思い出せぬことも忘れて己れは家路を急いだのだ。
「古井さん、あんなこと言っちゃって良かったんすか?」
「君は今年からだったから分からないのは仕方がないけれど、あれでいいんだよ。随分前に亡くなった奥さんのために小説を書こうだなんて、素晴らしいことじゃないか」
「けど8月16日までに出来上がるんすかね?」
「それも別にいいんだよ。私も君も、そして先生も時間はいくらでもある。せめてお盆の時期だけでも、現世の仕事に現を抜かすのも悪くないものさ」
【新田先生 完】
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