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我慢の日々 9
弟の手に導かれて階段を降り、浴室へ向かう。
見えなくなった世界は何処もかしこも暗黒で怖かったが、流が僕に触れて手を引いてくれると、どこまでも、どこにでも行ける気がした。
やっぱり流は僕の光だ。
ずっと小さい頃からそうだった。
一体どうしてなのか……ずっと流の存在が僕の生きる糧だった。
ただそこにいて、笑って話しかけてくれればいい存在だった。
同時に、成長と共に僕に甘酸っぱく艶めいた熱い感情を抱かせる相手にもなっていた。
まさか、だが……
その先を考えるのは、道を踏み外すことになるので、怖かった。
流が、視力を失った僕の風呂の介助をしようとした時、流の前で裸になることを強く意識してしまったのは何故だろう。
もしかして、僕の恥じらいを流も気付いたのか。
そんな僕を尊重して作ってくれたのが、このシャンプー台なのか。
そう思うと流の優しさと気遣いが詰まっていて、泣けてくる。
「兄さん、じゃあ洗うぞ」
「うん」
「まずは全体をシャワーで濡らすよ」
まるで美容師のような手つきの良さに、呆気にとられる。
「ちょっと待って! 一体いつの間に、こんな技をマスターしたんだ?」
「あぁ、美容院に行って体験してきた」
「えぇ? 流は美容院は大っ嫌いだったんじゃ……」
「全部兄さんのためだ。兄さんの髪をしっかり洗ってやりたくてさ」
「……ありがとう」
健気な弟の優しさに触れ、不覚にも涙が零れそうだ。
「んっ……」
慌てて目元を押さえると、流が謝って来た。
「ごめん。シャンプーが目に入ったか」
「大丈夫だよ、続けて」
男らしい力強い手だ。
僕の記憶の中で一番最初に流の手を感じたのは、丈が生まれた時だ。
ガラス超しに眠る赤ん坊を一緒に見ながら、まだ2歳だった流の手を、4歳の僕がギュッと握ってやった。
朧気だが確かな記憶は、胸の奥にいつまでも残っている。
あんなに小さな手の流だったのに、今では僕よりはるかに身体も手も大きくなり、いともたやすく僕の頭を持ち上げ丹念に洗ってくれる。
頭皮をマッサージしてもらうと、すごく気持ちよかった。
自分では届かなかった洗えなかった部分を丁寧に解され、洗髪してもらっているだけなのに、まるで身体の隅々までマッサージしてもらっているようだ。
「兄さん、どうだ? 他に痒い所はないか」
「大丈夫だよ、もう」
あまりに流の手つきが気持ち良くて、ふわふわな気持ちだ。
見えない世界は真っ暗だったはずなのに、今は希望に溢れた明るい光が差し込んでくるようだ。
光が眩しくて、目の端から堪えきれない涙が流れてしまった。
「兄さん?」
「あぁ……ごめん。少し眩しくてね」
「眩しい? って、もしかして光を感じるのか」
「そういえば今日はいつもよりずっと明るいよ。さっきまで暗かったのに……」
「兄さんの心を解せたのかもしれない! よしっ、いい兆しだ。さぁトリートメントもしてやるから、もう少しじっとしていろよ」
「トリートメント? そんなものいらないよ。女性じゃあるまいし」
「何言ってんだ? 兄さんの髪、随分痛んでいるから、ケアをさせてくれ。今日は母さんのだけど、今度は兄さん用に買ってくるよ」
「う……ん」
やっぱり少し照れ臭いね。いつも常に弟たちの前を歩いていた僕なのに、こんな風に何もかも委ねるのは。
「兄さんの髪は、いつも艶やかで……」
まるで何かを告白するような流の口調だった。
「じゃあ……流が元に戻してくれよ。僕を元の姿に……」
柄にもなく甘えたことを口走ってしまい、その後は羞恥で無言を貫いた。
でも流になら、もう身も心も任せられる。
やがて……まどろんでいく。
流の手が気持ち良すぎて、また眠気がやってくる。
視力を失ってからの僕は、とても疲れやすい。
だから少し寝かせて欲しい。
****
兄さんの小さな頭を持ち上げ、首の後ろに温かいおしぼりを敷いてやった。すると兄さん華奢な喉をクイっと逸らし、ふぅっと気持ちよさげに息を上に吐いた。
上下する喉仏。
細い顎、小さな頭。
濡れた髪が額にまとわりつくのも、何もかも官能的だ。
兄さんの目が見えていないのをいいことに、洗髪しながら、俺は穴が開く程、兄さんの顔を至近距離で見つめ続けた。
左目の下の涙黒子に、いつか口づけしてみたい。
そんなことも、ぼんやりと……
兄さんも最初は落ち着かない様子だったが、だんだん気持ち良くなったようで、眠たそうに手の甲で目をゴシゴシと無造作に擦り出した。
視力を失ってからの兄さんは、どこか子供みたいな無防備な仕草をする。
ふっ、可愛いな、兄さん。
このまま眠ってもいいぞ。
俺が抱き上げて部屋に連れて行ってやるから。
兄さんは何もかも俺に委ねてくれればいい。
兄さんを守るのが、俺の役目だから。
そうしてくれ。
もう二度と、一人で耐え忍ぶなよ!
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