光を手繰り寄せて 2 

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光を手繰り寄せて 2 

 兄さんと駅へ向かうために国道を歩き出すと、母さんに呼び止められた。 「待って! やっぱり徒歩と電車は危ないわ。今日は車を修理に出しているから、タクシーを呼ぶわ!」 「……兄さん、どうする?」    兄さんが北鎌倉に戻って来てから病院以外の外出は初めてなので、母さんが心配なのは分かるが…… 「そんなに心配しなくても、俺がついているのに」 「あなたは時々無鉄砲な所があるので心配なのよ」 「おいおい、もうしないよ。兄さんに対しては絶対にしない」 「そうなの? でもとにかく今日はタクシーにして。あなた呼んで下さる?」  ここ数年の俺たちの疎遠な関係について、両親は口には出さなかったがとても心配していたのは知っている。  俺は兄さんが俺を置いて家を出て行ったのが、結婚したのが、どうしても受け入れられなくて自暴自棄になっていた。  だが兄さんはもう俺の手中に収めた。いや違うな。そうじゃない。兄さんをそんな風に縛ってはならない。どこまでも気高く尊い人だから。 「翠……くれぐれも気を付けていくのよ」 「母さん、すみません。我儘を言って」 「何を言っているの? あなたは昔からいい子過ぎたのよ。もっとこれからは我儘をいう事、分かった?」  母さんが兄さんを突然ふわっと優しく抱きしめた。  これには驚いた。  物心ついてからこんな光景は見たことがなかった。  兄さんの見えない目は、その光景を映したのか、とても驚いていた。 「翠、ごめんなさい。私たち……ずっとあなたに負担をかけていたわよね」 「母さん、どうしたのです? 一体僕をいくつだと……あの、離して下さい」 「駄目よ。だってあなたって子は、よく考えたら……流が生まれてからぴたりと甘えて来なくなって……まだ小さな子供だったのに」 「それは……僕は長男ですし、弟の面倒を見るのが当たり前だと思って」 「馬鹿ね。あなたも流も丈も平等に私の息子なのに。あぁ私が忙しさにかまけて、ごめんなさいね。負担ばかりかけて、ずっと我慢していたこともあるでしょうに」  母さんの手が兄さんの頬を優しく包み込む。 「大丈夫ですよ。僕は今は視力を失っていますが、幸せです。こうやって母さんに抱きしめてもらい、弟の流は僕の手となり足となり……とにかく皆に守られ支えられて生きています」  兄さん……やめてくれ……もうそれ以上話すな。  泣けてくる。 「兄さん、ほら行くぞ。もうタクシーが来たから」 「あっ、うん」  父親も兄さんの肩や背中を撫でてくれた。   「翠や、気をつけてな。楽しんでおいで」 「流、しっかり頼んだわよ」  父も母も、まるで兄さんが小さな子供に戻ったように扱っている。  兄さんは両親に子供として愛される喜びと不甲斐なさの狭間で葛藤しているように見えた。 「兄さん、大丈夫か。しかし親も年を取ったな、心配し過ぎるよな」 「……驚いたよ……少し動揺してしまった」 「兄さんの驚いた顔は珍しいよ」  北鎌倉から由比ヶ浜までは、そう遠くない。  あの日タクシーの中に翠を見つけたことを思い出した。  あの時は俺に会いに来てくれたのだろう?  今なら分かるよ。  翠はいつだって俺に会いたいと思ってくれていたのに、意固地になってごめんな。  こうやって今は一緒にタクシーに乗っている。そのことが嬉しいよ。 「着いたよ。さぁ」  兄さんの手を引いてタクシーから下してやる。 「あぁ……懐かしいね……海の匂いだ」  ふわっと栗色の髪が風になびく。兄さんの……翠のスッと通った上品な鼻筋が好きだ。淡い色の唇のカタチも、シュッとした輪郭も、凛と研ぎ澄まされた中に、柔和な笑みを浮かる姿が、ずっと好きだ。 「……一人で歩けそうか。ここなら砂浜だから転んでも安全だし」  たまには一人で歩きたいのでは? 勝手に気遣って手を離すと、兄さんが俺の手を彷徨わせ、俺の手を握った。 「翠?」 「僕は流と一緒に歩きたい。手……まだ繋いでいてくれないか」 「どうして?」  翠の真意が読めなくて、思わず聞き返してしまった。 「俺なんか頼らず、ひとりで歩きたいんじゃないのか」 「嬉しいんだ。僕は……流とこうやって小さい頃のように手を繋いで歩けることが……いい大人なのに変かな?」 「変じゃない! 変ははずない! 俺もそうしたかった!」 「流……」  つい素直な言葉が、飛び出てしまった。 「ありがとう。流は僕の大好きな弟だ。本当に大事なんだ」 「あぁ……それでいい。多くは望まないから、この先は俺の近くに、ずっと傍にいて欲しい」 「いるよ。もう……僕はここがいい」  本当は弟なんかじゃ満足しないと叫びたかった。  だが今はそれよりも翠が戻って来てくれのが嬉しくて。 「そう言えば、探し物って何だ?」 「あの、怒らないか」 「一緒に探してやるよ」 「うん……実はこの海岸で流が買ってくれたお守りを落としてしまったようで……今更見つかるはずもないけれども、どうしても探したくて」 「えっ?」  あのお守りって、これのことか。  あの日、兄さんが月影寺に落としたお守りをポケットの中でそっと握りしめた。 「僕にとって、あれはとても大切なものなんだ。あのお守りがあれば怖くなかった。暗闇も……」  
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