882人が本棚に入れています
本棚に追加
光を手繰り寄せて 4
「違うんだ。実は……遠い昔、俺は兄さんとここに来たいと願って、ずっと兄さんのことを呼んでいた。たまに見るんだ……そんな悲しく寂しい夢を」
流の放った言葉に、僕の身体は雷に打たれたように震えた。
ど……どうして、そんな夢を?
それは僕の不吉な夢と不思議なまでにぴったりとリンクする。
夢の中の僕は、いつもひとりで待っていた。
寺の山門に立ち、愛する弟の帰りを今か今かと待っていた。
だが……どんなに待っても、彼は戻らなかった。
そのうち僕の視界が陰ってきた。
嫌だ!
目が見えなくなったら、弟の姿が分からなくなってしまう!
僕には聴こえる。
『……会いたい』
松風と共に届く声。
僕に会いたいと切に願う弟の声が……
なのにどうして戻ってこない?
どこに行けば会える?
「兄さん? どうした?」
「見たい! 今すぐ流の顔を見たいよ! もう我慢できない。僕の眼でちゃんと見たい。流……お前は今、どんな顔をしている? なぁ教えてくれないか」
涙がとめどなく流れ落ち、潮風に晒された頬がガサガサに乾いていく。
「馬鹿! そんなに泣くなよ。頬に跡が残るだろう」
「だが……」
「兄さんがそんな風に積極的に欲求し要求してくれるのは、嬉しいよ」
流が僕を風から守るように包んでくれた。
「さぁ、涙は俺の服で拭け」
「うっ……」
促されるように、僕はその胸に顔を埋めてしまった。
あ……なんだか変だ。
流の匂いと逞しい胸板を感じ、胸の奥が疼くなんて。
この感情の名は、何と言う?
戸惑ってしまう、躊躇ってしまうよ。
すると、いつになく視界が開けてきた。
明るさや影がいつもよりずっとはっきりと見えた。
だから必死に手を伸ばした。
「流、流……」
「どうした?」
流の顔に触れたくて、触れたくて。
「もどかしいよ。今にも見えそうで見えないのが」
「いつもより見えるのか」
「光と影を強く感じるよ。流の輪郭がぼやけて」
「兄さんに海は刺激的なのかもしれないな。こんなに感情を乱すなんて」
「ごめん。流……僕はもっとしっかりしないといけないのに」
「いいんだよ。今は甘えろよ。また海に来てみよう。もしかしたらいい兆しかもしれないぞ」
「そうなのかな?」
****
「ほら、早く脱がないと風邪をひくぞ」
「……だが」
北鎌倉の家に戻り、すぐに兄を脱衣場に連れていった。
砂浜で転んで下半身が濡れてしまったので着替えを手伝うつもりだったが、恥ずかしそうに俯いて耳まで赤くしている。
俺もそんな仕草に、さっきからドキドキしっ放した。
このままだと母さんに怒られてしまう。くれぐれも翠のことを頼むと、いつも口を酸っぱくして言われているのに、風邪でもひかしたら偉い剣幕になるだろう。
「ほら、母さんに見つかる前に……俺が怒られてもいいのかよ」
「う……確かに……僕が勝手に転んだのに、流が怒られるのは理不尽だものな。分かった……」
兄さんが観念したように、ズボンに手を掛けた。
兄さんの眼が見えないのは普段は辛いが、今だけは良かった。
兄さんの行動から目が離せない。
ほっそりとした太腿が露わになっていく。
あぁ、やっぱり白いんだな。
全然毛深くないのか。
滑らかな肌が触り心地良さそうだ。
「流、僕の着替えはどこ?」
「やっぱり海水でべトベトだな。ついでだから風呂に入れよ」
「えっ」
明らかに動揺する翠の表情に、なんでだよと不思議な怒りがこみあげて来る。俺なんてどうもでいいから、結婚して子供まで授かったくせに、なんで今更そんな恥じらうような表情をするのか。
「兄さん、俺たち……男同士だ。だからそんなに恥ずかしがるなよ。小さい頃、何度も風呂に一緒に入った仲だし、別に今更……兄さんの裸を見たってどうとも思わないよ」
「うっ、うん……そうだな」
それは真っ赤な嘘だ。
思春期になって、兄さんの裸を直視できなくなり逃げたのは俺だ。
今日だって成人した兄さんの裸を見たら、俺の股間がどうなるか分からん!
「それが、何故だか気恥ずかしくてね。あ……そうか、僕だけ見えないのがフェアじゃないからかな? だから、せめて電気を消してくれないか」
「ふっ……デリケートなんだな。分かったよ」
パチンと音を立てて、脱衣場の大きな電灯は消してやった。
「ありがとう」
だが洗面台の上部の薄い灯りは消さなかった。
許せよ。
翠の眼が見えないのを逆手に取り、俺は翠が洋服を脱いでいく様子に夢中になってしまった。
薄暗くてよく見えないが、心臓の下には……あの日の火傷の痕が残ってしまっているようだ。
目を凝らそうとすると、身を捩り手でサッと隠してしまった。
なんと、切ないことを――
翠の苦しみ、俺が全部被ってやりたい。
守ってやりたい――
「流、そこにいる?」
「あっ、あぁ、ちゃんといるよ」
「悪いが風呂場まで手を引いてくないか」
「分かった。足元に気をつけろよ。ほら、シャワーの蛇口はここで、湯涌はここだぞ。分かるな」
「うん」
「上がる時、また呼んでくれ」
「分かった。あの……」
「なんだ?」
「……その、風呂場の電気……ちゃんと消えてる?」
「もちろんだ」
風呂場は真っ暗だが、洗面台の上の灯りがほのかに灯っているので、ぼんやりと翠の裸体が見えていた。
今の翠には、ほのかな灯りは感じない。
だから、俺はずっと翠の身体を盗み見している。
誰にも言えない秘密を抱えている。
相変わらず兄に欲情する姿は、永遠に秘密だ。
俺の一方的な想いで、翠を困らせたくない。
怖がらせたくない。
兄であり、俺の密かな思い人、翠……
最近、心の中で翠と呼ぶ機会がますます増えている。
うっかり口に出してしまうことも……
最初のコメントを投稿しよう!