光の世界 8

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光の世界 8

 薙は僕の大切な息子だ。  父さんに諭されたように、離婚したから親子の縁が切れたわけではない。  ようやく薙に会える。  あの子は赤ちゃんの時から僕に似た顔立ちで、成長すると流に似たやんちゃな面も見え隠れし……張矢家の血を色濃く受け継いでいると思った。  そんな薙の健やかな成長は、僕の生き甲斐だった。  君の笑顔は、都心の高層マンションで沈みがちな僕の心を、しっかり地上に繋ぎ止めてくれた。  離婚した時、薙はまだ5歳だった。  僕に懐いていた可愛い息子と、あんな形で別れてしまうなんて……  薙は否応なく彩乃さんに連れて行かれ、今は彩乃さんのご実家で暮らしている。  本当にすまない。  あの頃の僕は、精神的にとても不安定だった。  自分のことで精一杯で抗う術がなかった。  僕の身勝手な事情を、まだ5歳の息子に分かってもらのは無理な話だ。  突然父親が消えてしまい、僕に捨てられたと思っているのでは?  僕の口から説明する前に、僕は大怪我をし視力も失ってしまったので、君を何ヶ月も放置してしまった。  とてもデリケートで大切なことだったのに。  僕は息子からの信頼を失うのが怖い。  もうあの可愛い笑顔を見せてくれないかもしれない。  耐えられるだろうか。  僕に……  受け止められるだろうか。    僕は……  これから起こりうる最悪のパターンを考えると胸が塞がる。  でも可愛い息子の顔を一目だけでも見たい。  期待と不安が交差していく。    駅までの道すがら、薙のことばかり考えていた。  こうなると予想出来たから、流には甘えられなかった。  僕は流の兄であり、薙の父だ。  だから……ごめん、ごめんよ。  流の心配をよそに、振り返りもせずに勢いで飛び出してきてしまった。  薙との親子関係は僕だけの問題だから、一人で背負っていかないといけない。流を巻き込むわけにはいかないんだ。  分かっておくれ。  いつも都内の大学病院に行く時は、流の運転する車だったので、本当に久しぶりに上りの電車に乗った。  休日なので都心に向かう電車は混んでいた。  そこに意を決して乗り込んだ。  雑多な雰囲気に押され、人の話し声が妙に大きく聞こえて不快だった。  誰かに見られているのではと、緊張してしまう。  吊り革に掴まる手は、どんどん冷たくなっていた。  なんとか耐え忍び、品川駅で山手線に乗り換え渋谷へ向かった。  渋谷駅は、人、人、人の洪水だ。  息が出来ない。  なんとか雑踏を抜け、彩乃さんのご実家の寺門前に立つと足が震えた。  時計を見ると約束の時間5分前だった。  インターホンは押さずに待っていると、彩乃さんに手を引かれて、幼い薙がとぼとぼとやってきた。  薙だ、僕の息子――  俯いているので表情がよく分からない。 「翠さん、お久しぶりね」 「……彩乃さん、元気だった?」 「すっきりしたので毎日楽しいわ。そういう翠さんもすっかり元気になっちゃって、よほど北鎌倉の水が合うのね」    久しぶり会ったというのに、この会話だ。  もう何も言い返す気が起こらない。  それよりも薙の様子が気になる。 「あら、もうお得意のだんまり? まぁいいわ。約束だから薙は貸すけど、16時には返して頂戴。今日は17時からピアノのお稽古があるのよ」  その台詞には黙っていられなかった。 「……薙は物じゃない! そんな言い方よしてくれ! 大事な子供だ」 「なぁに、珍しく怒ったりして、あーこわっ」 「そんなつもりじゃ」 「ママぁ……もう……いっていい?」  薙がやっと顔をあげてくれた。  あぁ、やはりとても寂しそうな顔をしている。 「もう早く行って、二人だけの時間が減るわよ。せいぜいごゆっくり」  薙の手を振り払い、彩乃さんは去っていった。  取り付く島もないとは、このことだ。  今日は薙だけを見つめよう。 「薙……お父さんだよ。長い間、連絡出来ずごめん。本当にごめんね」 「……パパ……あいたかったよ」 「薙っ」  まだ心は繋がっているのか。  熱い物が込み上げてくる。  こんな小さな子供の心に、重い負担をかけてしまった。  親として情けないことをした。  同時に……この子を心から愛していると実感した。  その場にしゃがんで薙と目線を合わせ、一言一言噛みしめるように伝えた。 「父さんも薙に会いたかったよ。会えて良かった」  そのまま薙を懐に抱きしめた。  小さな心が壊れないように、優しく、そっと――
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