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光の世界 9
己の気配を消すことを、ようやく習得出来た。
だから俺は空気となり、兄さんを尾行し続けた。
一人で東京に向かう兄さんの頭の中は、今は息子のことで一杯だろう。
兄さんが父親になったことを受け入れられる今だから、こうやって心落ち着かせて見守ることが出来るのだ。
兄さんは俺の元に帰って来てくれた。
そのために兄さんが払った犠牲は計り知れない。
それにさ、兄さんの一人息子、薙は、赤ん坊の頃に一度会ったきりなのに不思議とすべてを受け入れられる存在なんだ。
なんだろう? 甥っ子に我が子に抱くような熱い情が湧いてくる。
ふっ、馬鹿げたことを。
薙がどんな風に成長したかも知らないくせに。
あの日から俺は徹底的に兄さんを避けたので、薙のことをあえて知ろうともしなかった。
ただ薙の身になると、大人の都合でお父さんと生活できなくなり寂しがっていると思うと、兄さんが会いにいくのは当然のことだと思う。
それにしても彩乃さんの実家に向かう兄さんの足取りは重たい。心が重たいのだろい。
これは自分だけの問題だと、きっといつもの悪い癖で何もかも一人で抱え込んでいるのが、手に取るように分かる。
追いついて肩を並べて歩こうとも迷ったが、今は見守る方を選んだ。
兄さんは振り返らなくていい。
兄さんが歩む道が俺の歩む道だから、大丈夫だ。
電車の中立っているのも辛そうで、背後に回って支えてやりたくなった。
「大丈夫だ。深呼吸しろ」と背中を擦ってやりたかった。
渋谷の雑踏を藻掻くように歩く兄さんを見て、やはり次は絶対に車で連れて来ようと誓った。
兄さんに話しかけるタイミングがなかなか掴めない。
彩乃さんは変な所で鋭い女性だ。
下手に俺が姿を現して、兄さんに余計な負担を掛けたくない。昔、我が家でさり気なく牽制されたことを思い返すと腸が煮えくりかえるが、必死に気配を消すことに徹した。
俺も成長した。
同じ過ちは繰り返さない。
やがて寺門に彩乃さんと薙がやってきた。
薙の顔は、俯いてるのでよく見えない。
だが顔をあげた時、ハッとした。
「に……兄さんそっくりだ」
俺が小さい頃いつも見上げていた愛らしい兄さんにそっくりで驚いた。
あぁ……愛おしさが一気に増す。
なんて可愛い子供なんだ。
流石兄さんの息子だ。
俺も話してみたい。
だが今日はまだ早い。
今は、父と子の貴重な時間だ。
二人きりだから話せること、きっとあるよな。
邪魔はしないよ。
暫くすると、兄さんが彩乃さんに向かって小さく怒った。
あぁ、こんな顔をするのか。
兄さんを怒らせるなど、よほどの事だ。
彩乃さんは怒りに任せ薙をまるで物のように兄さんに押しつけて去っていった。
兄さんは困ったような素振りで溜息をついた後、その場にしゃがんで小さな薙をそっと抱きしめた。
それは――
泣きたくなるほど切ない光景だった。
そのまま兄さんは薙と手を繋いで歩き出す。
俺もそっと気配を消してついていく。
今は影武者でいい。
きっと今日は……別れ際に辛くなるだろう。
帰り道――
兄さんは人知れず泣いてしまうかもしれない。
遠い昔のように強がって涙を隠すかもしれない。
そんな時――
兄さんが辛い時には、絶対に傍にいたい。
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