波の綾 4

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波の綾 4

 だだっ広い公園には、人っ子一人いなかった。     お盆の真っ只中、皆忙しいのか。  とにかく、ここには俺と翠しかいない。  願ってもいない環境に悦に入る。  背中に担いできた茣蓙(ござ)を、芝生のふかふかな場所を見定めて敷き、そこに兄さんを座らせた。 「ここにしよう」 「あぁ、絶景だね」 「そうだな、ほら手を貸せ」 「うん」  男にしてほっそりした手指を、おしぼりで丁寧に清めてやる。    翠はもう何もかも素直に、俺に身を任せてくれる。  この先はそうやって生きていくと誓ったことを、律儀に守っている。  本当にありがたい。  だから俺の中に潜むやましい情欲は、心の奥底にねじ込んで生きていく覚悟だ。  翠が傍にいてくれるだけで有り難い。視力が回復し再び俺を見つめてくれるだけでも奇跡なのだから。    あの海で溺れた翠を助けるために、御仏に念じた。  翠の命と視力の回復と引き換えに、俺の実兄に対して抱いてはならぬ情欲は封印する。だから助けて下さいと。 「腹減ったな」 「うん、ペコペコだよ。ほっとしたからかな」  握ってきたおにぎりにパリパリの海苔を巻いて渡すと、嬉しそうに食べてくれる。  こうやって翠の衣食住を担わせてもらえるだけで充分だ。 「美味しいね」 「だろ?」 「うん。お米も具も全部ふっくらしている。流の手は大きいから上手に握れるのだね」  翠が俺の手を取って、じっと見つめてくる。 「な、なんだ?」 「いや、大きくなったなぁと。昔は楓のように小さかったのに」 「まったくいつの話をしているんだか」 「ふふ、そうだね。流はこの大きな手で掴めるものも多いだろうに、いつもずっと僕の傍にいてくれてありがとう。今日も流が待っていてくれると思うと頑張れたんだ」  翠がコトンと俺の肩に頭をもたれさせた。    あぁ……こうやって甘えてもらえるだけで幸せだ。 「住職への道は険しいよな。俺には無理だったが、兄さんなら目指せるよ。応援しているよ」 「うん、険しい道だよ。近頃は休む暇もない」 「父さんが気を遣ってくれたのかもな。今日は……」 「……そうかもしれないね。住職は慈悲深いお方だ」 「いや……親の情だろう。皆、兄さんのことが大好きだから」 「……流も?」  兄さんがそっと聞いてくる。 「当たり前だ。兄さんのことが大好きだ。全身全霊で守りたい人だ!」  いかん。  これでは、まるで愛の告白だ。    だが言わずにはいられない。  伝えずにはいられなかった。 「流、ありがとう。時々……僕の全てを流に委ねたくなるよ」  兄さんは少し寂しそうに儚く呟いた。  意味深なことを……  だが、それはどういう意味だと問うのはやめた。  俺たちは実の兄弟だ。  超えてはならぬ高い壁がある。  しばらく無言で、持たれあっていた。 「あ、そろそろ行かないとね」 「もうそんな時間か。片付けるから待ってくれ」 「うん」  その時、急に日が陰り辺りが暗くなった。  ぽつりと大きな雫が、茣蓙を濡らした。  茣蓙に出来た黒い染みは、俺の心から溢れ落ちた涙のようだとも。  燻る想いを今は抑え込めても、何かをきっかけに暴れ出しそうで怖い。 「一雨来るぞ」 「……雷が鳴り出したね」 「しまった! 弁当に気を取られて、傘を車に忘れた。すまん」 「大丈夫だよ」  だが悠長なことは言っていられない。  雨の方が、先にザーッと降り出した。 「兄さん、あの木陰で雨宿りをしよう」 「雷が鳴っているから、木の下は危ないよ」 「そうだな。じゃあ早く車に戻ろう」 「うん」  大粒な雨が兄さんの袈裟を汚していくのは、見ていられない。 「これを」  俺は作務衣をサッと脱いで、兄さんに羽織らせた。 「えっ、流……僕は大丈夫だよ」 「俺が濡れる兄さんを見たくないんだ。さぁ行くぞ」 「あっ」  手を引いて急いで山を降りようとしたが、水溜りで足下が悪く、袈裟姿の兄さんがまごつく。それに兄さんは雷が苦手だから守ってやりたい。  俺は居ても立ってもいられなくなり、兄さんを有無を言わさぬ勢いでザッと抱き抱えた。 「りゅ、流!」 「いいからじっとしてろ! まだ午後の棚経もあるんだ。風邪を引かすわけにはいかない。大人しくしていろ」  裸の胸に兄さんの頭を押しつけて、その上に脱いだ袈裟をかけて雨合羽の代わりにした。  そのまま一気に歩き出した。  こういう時のために長い年月をかけて鍛え上げた身体だ。  俺より一回り小さく軽い兄さんを担ぐ位、難しいことではない。 「りゅ、流、お前が風邪を引いてしまうよ」 「大丈夫だ。鍛えている! それに風邪なんてずっと引いてないさ」 「流……どうして、僕にそこまでしてくれる?」 「言わなくても分かるだろう……」  兄さんが好きだから。  その言葉は呑み込んだ。  今はまだ駄目だ。  いつか夜空に浮かぶ悲しい月に許してもらえたら……  その時は、この手で掴みたいものがある。  遠い未来に夢を託して、山を駆け降りた。
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