波の綾 8

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波の綾 8

 部屋に戻ると、流は高熱で朦朧としていた。    普段あまり熱を出さない分、相当堪えているようだ。  僕が代われるものなら、代わってやりたい。 「流、しっかりしろ」 「……う、うう」 「駄目だ、やっぱり先生に連絡をしてみよう」  部屋の時計を見ると、もう0時近くだった。  こんな時間にいきなり電話をするのは、大変失礼だとは承知している。  それでも、あの先生なら……  僕のこの切羽詰まった気持ちを汲んで下さるのでは?  助けて下さるかもしれない。  そんな甘えにも似た感情を抱き、流の引き出しから名刺を探しだし受話器を握った。 『森宮海里』  それがあの先生のお名前だ。  由比ヶ浜の『海里診療所』は、先生のご自宅も兼ねているらしい。  5コール目で上品な声が聞こえた。 「……もしもし、海里診療所です」  見事なバリトンボイスだ。  バリトンボイスとは中低音の声質のことで、心地良い響きに魅了される人が多く、人が一番落ち着く声という説もある。  先生の声を聞いただけで、救われた気持ちになった。  僕の視力が快復した日に先生のお顔を拝見したが、日本人離れした顔立ちで、とても上品な紳士だった。  そんな尊い先生相手にこんな無作法を働いて、申し訳ない。 「あ、あの夜分に突然申し訳ありません。僕は以前葉山の海で先生に助けていただいた張矢 翠と申します。あの、覚えていらっしゃいますか」 「あぁ君か、君はお兄さんの方だね。無事で良かったよ。視力も落ち着いているようだな」  その時になって、僕は助けて頂いたお礼をしていなかったことに気付いた。 「その節はありがとうございます。きちんとお礼もせずに申し訳ありません」 「いや、当たり前のことをしただけだ。それに『便りがないのは良い便り』と言うだろう」 「先生はお優しいですね」 「そうかな? さてと、俺はどこに行けばいい?」 「えっ?」 「ん? 変な事を言ったか。今すぐ診て欲しい人がいるから電話をくれたのだろう?」  先生の一言一言が、身に染みる。   「君は甘えていいんだよ。さぁ」 「すみません。実は僕の弟が40℃近い高熱で朦朧としていてえ、心配でたまらないのです。僕は流がいなかったら生きていけないのに……どうしたらいいのか分からなくて……」    思わず零れたのは、僕の本音――  そして過去からの悲痛な声。  ほぼ初対面の先生相手に、一体何を言って?  そう思うのに悲痛な訴えは止らない。 「すみません。僕……」 「大丈夫だ。俺でよければ今から往診出来るが」 「ぜひ、是非お願いします」 「君の気持ちが痛い程分かる。だから助けたい」 「ありがとうございます。あの……僕が迎えに行きます」 「いや、君の目はまだ夜道に慣れていない。まして高熱で魘されている弟くんが心配するよ。『君を一人にしない』というオーラが漂っていたからね。だから俺が行くよ」 「ですが……」  高齢の先生にとって、夜道は酷なはずだ。 「なぁに、俺には有能なパートーナーがいて運転がとても上手なんだよ。安全運転で向かうから、行き先を教えてくれ」 「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……北鎌倉の月影寺です」 「ほぉ、そうか……君はお寺のご子息だったのか。深いご縁を感じるよ。さぁ、すぐに行くから、君は弟くんの身体を冷やしてあげないさい」 「あ、はい」  なんて力強い、なんと頼り甲斐のあるお方なのだろう!  僕はもう昔のように、一人で耐え忍ばない。  あれでは誰も幸せにならないことを痛感した。  沢山の過ちを犯した身だから……  今度こそ流と一緒にいられるために、最善の道を模索していこう。 「流、流……あの時の先生がいらして下さるから、もう少しの辛抱だよ。僕がいるから……お兄ちゃんがいるから……大丈夫だよ」  流の手を取って、何度も何度も励ました。 補足…… 森宮海里は『まるでおとぎ話』の登場人物です。 https://estar.jp/novels/25539945 晩年の彼らとのクロスオーバーの始まりです。
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