波の綾 9

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波の綾 9

「流、先生がそろそろ到着するようだ。ちょっと山門まで迎えに行ってくるね」 「……翠……いやだ」  滅多に熱を出さない流は、すっかり気弱になっている。  何かに怯えているのか、僕の手首を掴んで離さない。  こんな風に駄々を捏ねるのは久しぶりだ。 「どうした?」 「俺を……置いて……行くな」 「大丈夫だよ。すぐに……必ずここに戻ってくる」  月影寺に戻って来てから、時折、流は僕を『翠』と呼ぶ。  『兄さん』でなく『翠』と名前で呼んでもらえるのが密かに嬉しい。  その度に、僕は見てはいけない夢を見たくなる。  今はそんな場合ではないのに、甘い夢を見たくなる。 「大丈夫、大丈夫だよ。僕はずっと流と一緒だ。もう離れないよ」  僕は布団の上から流の身体を辿るように擦ってあげた。  小さい頃からいつもそうしていたように、僕が持てるありったけの愛情を込めて――  流を落ち着かせてからそっと部屋を出る。  山門を降りて国道に立っていると、白い車がゆっくりと坂道をのぼってきた。  きっとあの車だ――  クラシカルなフォルムの車がぴたりと僕の前で停止した。  すぐに助手席から颯爽と降りてきたのは白衣を羽織り、黒い聴診器を首から提げた、長身の男性だった。 「森宮……いや……海里先生、往診して下さって本当にありがとうございます」  『森宮先生』よりも、病院名にされている『海里先生』とお呼びした方がいいと判断した。 「あぁ、いいね、俺は海里と呼ばれる方が嬉しいよ。待たせたね」 「とんでもないです。急なことで、申し訳なかったです」 「俺はいざという時に動ける医師でありたいと常に思っているので、謝ることではない。おっと」  車から往診用鞄を下ろそうとしていた華奢な体つきの男性に、海里先生が少し慌てた様子で駆け寄った。 「柊一(しゅういち)、荷物は俺が持つよ」 「はい」  この車を運転してきたのは、彼のようだ。  柊一と呼ばれた黒髪の男性は、海里先生より一回りほど年下だろうか、年齢を感じさせない上品な顔立ちで物腰も柔らかく、声のトーンも穏やかだった。  海里先生と柊一さん。  月明かりに照らされた二人の姿は、どこまでも気品で溢れていた。  そしてとても甘い雰囲気だった。  もしかしたら……彼らは……そんなことを思ってしまった。 「早速だが診察しよう」 「弟の部屋に案内します」 「あの……海里さん、僕はお邪魔になってしまうので、車で待っています」  そしてとても控えめな男性のようだ。 「そんなわけにはいきません。どうぞ一緒にお上がりください。客間もありますので」 「柊一、そうさせてもらおう。俺は君の姿が見えないと不安になるんだ」 「……ではお言葉に甘えて、お気遣いありがとうございます」  あぁ、やはり……そういうことなのか。    海里先生に診ていただければ安心だ。  そして僕の心も大丈夫だ。  良かった、本当に良かった。  もう僕はあの時のように、自分の心を壊すわけにはいかない。  僕には生きる目標がある。  それは流と共に生きていくこと。
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