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波の綾 10
柊一さんを客間に通し、海里先生を流の部屋にすぐに案内した。
「先生、こちらです。宜しくお願いします」
海里先生はだいぶご高齢だが、背筋を真っ直ぐ伸ばし白衣を翻して颯爽と中に入っていった。
前回は回復したばかりの視力で視界が鮮明ではなかったので、今日はしみじみと海里先生の姿を見つめてしまう。
その凜々しさに思わず見惚れてしまうよ。
海里先生は、まるでおとぎ話の主人公のようだ。
柊一さんという男性を、広く深い愛で包み込んでいる。
「……誰だ?」
見知らぬ気配を感じ、流が警戒心一杯の声をあげる。
「流くん、失礼するよ。俺は君を助けにきた医師だ。早速だが診察させてくれるかな?」
「あ、あなたは……」
「そう、俺だ。覚えているかい?」
「はい……その節は助けていただいたのに……お礼にも伺えず申し訳ありません」
高熱に浮かされながらも、僕と同じ台詞を言う弟に愛しさが増す。
流……大人になったね。
「礼など望んでいないよ。医師として当たり前のことをしたまでさ。年を重ねても、まだ出来ることがあって嬉しかったよ。さぁ診察をしよう。胸の音を聞かせておくれ」
流が苦しそうに呟いた。
「……先生……俺……厄介な病気ではないですか。まさか心臓が悪いとか……」
流?
何故、突然そんな心配を?
僕は眉をひそめて、先生と流のやりとりを壁際で見守った。
流の病は、気の病なのではと案じてしまう。
「ふむ、どうやら君は見えない過去に怯えているようだね」
「実はよく分からないのですが、病になることが不安で仕方がなくて」
「なるほど、喉も見せておくれ。喉は痛くなかったかい?」
「……実は数日前から痛いです」
「やはりな、どの位?」
「唾を飲み込むのも痛かったです」
「うん、そうだろうね、あぁ、これはかなり腫れて真っ赤だ。そこに何か無理をして、一気に発熱したようだ」
先生の説明に、流は自分の胸を押さえて訴えた。
「先生、もう一度教えて下さい! 俺の心臓はちゃんと動いていますか。変ではありませんか」
「うん? 規則正しく動いているよ。聴診器で聴いた限り他の病気の兆候はない」
「そうですか……良かった」
「これで安心したかい?」
「はい、そのことが気がかりで、熱が出てから鼓動がおかしいような気がして」
「それは高熱のせいだよ。熱の影響で鼓動が乱れているからね」
「なんだ、そうだったのですか」
流の安堵した声に弾かれ、僕の双眸から突然涙が溢れた。
「うっ……うう」
どうして僕は泣いてしまうのか。
こんな不自然な涙を見せたら、流が心配するだけだ。
慌てて袂で目を擦ると、海里先生に呼ばれた。
「翠くん大丈夫だよ。君の弟さんはどこにも行かない。今回は喉の赤みからして咽頭炎のようだ。急な高熱はそのせいだ。今、頓服と薬を処方するので早く飲ませてあげなさい」
「はい……ありがとうございます」
遠い昔……
僕が僕になる前、流が流になる前があるのか。
どうやら僕たちには見えない過去があるようだ。
ずっと霞んでいた視界に、一筋の道が見えた。
まだはっきりとは見えてこないが、流の不安と僕の不安は同じ場所から生まれたようだ。
だが僕たちが一緒に過ごせば、その悪夢は繰り返されない。
そのことに気づけた。
「流、本当に良かった。もう大丈夫だよ。僕たちは絶対に離れない、離れてはいけないんだよ」
流の手をさすりながら、何度も呟いた。
海里先生は、もう気づかれているのかもしれない。
僕が流に抱く感情を――
兄弟を越えた愛を、密かに心の奥底に持っていることを。
だから躊躇いながらも海里先生の前で、流の手に頬をそっと寄せてしまった。
僕が流を想う心は今は言葉には出せないが、せめて温もりを一刻も早く届けたくて。
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