波の綾 13

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波の綾 13

「住職、今日は予定通り休暇を頂いても宜しいでしょうか」 「もちろんだ。翠は根を詰めすぎるから、たまにはこの寺から出て外の空気を思いっきり吸ってくるといい」 「ありがとうございます。では行って参ります」 「あぁ、ちょっと待ちなさい」 「はい?」  居直ると、住職が文机の上に置かれた箱から白い封筒を出し、僕の手に握らせてくれた。 「あの……住職、これは?」 「翠や、今は父さんと呼びなさい」 「あ、はい……では、父さん、これは何でしょう?」 「コホン、その……お小遣いだよ」  お小遣い?    もう30歳になろうとしている成人した息子にお小遣いなんて、どういう風の吹き回しなのか。だが父の愛情を深く感じた。 「それで流と何か美味しいものでも食べて来なさい。そう言えば月下庵茶屋の大女将もお前たちに会いたがっていたぞ」 「あ……それなら、ちょうど帰りに寄ろうかと」 「そうだったのか、さぁ楽しんでおいで」 「はい」  部屋に戻ると、流が待ちきれない様子で、すっ飛んで来た。 「兄さん、遅かったら心配したぞ。父さんに止められたら、どうしようかと」 「馬鹿だね。むしろお小遣いをもらってしまったよ、ほら」 「へ? お小遣いなんて何年ぶりだ?」 「だよね」 「昔みたいだな」 「僕もそう思ったよ。あの頃、流はすぐにお小遣いを使い切って僕に借金をしたよね。あ、そうだ、あの時貸したお金を請求しないと」 「げっ! すっかり忘れていた! 利子も払わないとな」 「ふふ、冗談だよ。もう全部返してもらったよ」 「えっ、いつ?」 「今……こうやって傍にいてくれる。もうそれだけで充分だよ」  これは本音だ。  率直な気持ちだ。  だから、そう告げた途端、一気に僕の気持ちも高揚した。  ただ、こんな風に今を楽しんで良いのか。  僕の過去を振り返れば手放しでは喜べる状況でないのは分かっている。離婚した彩乃さんの存在はのし掛かり、大事な一人息子の薙を忘れたわけではない。    薙……この先、君の心が離れていかないか心配だ。面会日以外に近づくのは禁じられているのがもどかしい。我が子に自由に会えないとは、僕は自分が本当に情けない。  だが、今日だけは……  流だけを見つめてもいいか。  こんな風に弟と海や甘味屋に行くことは、遠い昔からの悲願だった気がする。  とても親しい人の胸を焦がすような想いが、いつも僕の傍にある。 「流、行こう!」 「おっと、その前に着替えてくれないか」 「ん? 袈裟では駄目か」 「洋風な先生だったし、今日は普段着になってくれよ」 「……そうだね、そうしよう」  袈裟を脱げば、僕は流の兄に戻れる。  兄――  最近の僕には、少し切なく聞こえるのは何故だろう?  兄以上でも兄以下でもない。  僕はただの『翠』になりたい。  そんなことをふと思うと、心がいくらか軽くなった。 「これを着るといい」 「うん」  紫がかったピンク系統の色合いのポロシャツにベージュのチノパンというカジュアルな服装になった。  着心地の良さと優しい色に、心が落ち着く。  流に導かれるように車に乗り込むと、当たり前のように流がシートベルトを締めてくれた。  漆黒の髪が僕の身を掠めると、トクンと心が跳ねる。  たったこれだけの触れあいでも、僕の心は羽ばたいていく。  やがて湘南の海が見えてくる。  青い面がキラキラと輝いて、美しい海だ。 「不思議だな、お盆の棚経で何度も通った道だが、景色が全く違って見えるよ」  それはきっと、流と二人きりのプライベートな外出だからだろう。  その言葉は胸の奥に。  その代わり笑顔を向けた。  流も綻ぶ。  もう心は離れない。  僕たちの気持ちはいつも一緒だよ。 「兄さんの笑顔……ずっと見たかった」
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