波の綾 16

1/1
前へ
/239ページ
次へ

波の綾 16

  「やぁ、翠くんに流くん、すぐにここが分かったかい?」」 「はい、弟がいるので迷いなく」 「そうか。さぁ、上がってくれ」  海里先生に通された診療所はとてもクラシカルな雰囲気だった。  一面の白い壁は清潔感一杯で、クリーム色の診療台や机に心が落ち着く。  白い戸棚の中には、薬品がずらりと並んでいたが、何故か威圧感はない。  こんな診療所があったらいいなという夢がぎっしり詰まっていた。  建物自体がアンティークだからなのか。    新しい物とは違う深みやがあり、心地良く、安らぎを感じられる。 「見事ですね」 「ありがとう。この洋館は大正末期に建てられたもので、それを診療所として改装したんだよ」 「長い歴史が醸し出す雰囲気が素敵です」 「その通りだ。さぁ、奥へどうぞ」  大きな白い扉には、繊細な薔薇のレリーフが彫られていた。  扉の向こうにはキッチンと白いダイニングテーブルが置かれていた。  どこまでも白なんだな。  どうやら先生のご自宅部分に入れていただけたようだ。  これは気が引き締まる。  背筋を正して居直ると…… 「おいおい翠くん、少し肩の力を抜いて。ここではそんなに緊張しなくていい。俺は取って食いやしないから」  海里先生がおどけた口調になれば、流も朗らかに笑う。 「そうだそうだ! 兄さん、俺がなんのために重たい袈裟を脱がせて、その服装にしたのか、意図も汲んでくれよ」 「あ、ごめん。つい癖で」 「流くんの言う通りだな。ところでそのポロシャツ、いい色だね。君によく似合っているよ」 「ありがとうございます。これは弟が作ってくれた物です。僕のイメージで」 「夜明けを感じる色合いで、明るい未来を感じるよ。どうやら弟くんは君の良き理解者のようだ」  素敵な言葉を頂いた。  話がどんどん流れていく。  とても自然に滑らかに、淀みなく流れる川のように。 「あ、あの、今日は先日のお礼で参りました」 「わざわざ、ありがとう」 「これを、母から預かってきました」 「うん?」 「英国製の紅茶のようです。先生がお好きそうだと母が銀座で求めてきました」 「ほぅ、これはRGray社のだな」 「ご存知でしたか」 「あぁ大好きな店ものだ。特にこのアールグレイは絶品さ」  海里先生の微笑みは華やかな大輪の白薔薇のようだ。  そこに柊一さんが銀のトレーを持って入ってくる。 「どうぞ、スコーンと紅茶です」 「柊一もこっちへおいで」 「あ、はい」  ニコッと微笑む柊一さん、やはりとても可愛らしい。    ずっと年上の方なのに、年を重ねるのを忘れてしまったかのような清純な人だ。  良い香りのお紅茶とスコーンをいただきながら、和やかに談笑した。  さっきから流はずっと上機嫌で、前のめりで会話に積極的に加わっている。世界を旅した流だから、海里先生の若い頃の留学先の話にまで飛躍して、和気藹々とした雰囲気が生まれていた。 「俺もドイツもイギリスも行きましたよ」 「ほぅ、俺たちも英国には縁があってね」 「そうなんですね。そういえば英国で珍しい館を見ましたよ」 「どんな?」 「少し田舎の貴族の館のようでしたが、白くて赤い目のうさぎが跳ねて、何故か日本庭園がありました」 「ほぅ、それはきっと……どうやら君は幸運のランドマークを見たようだね」 「そうなんですか」  その様子を客観的に見つめているうちに、僕は猛烈な憧れを抱いた。  僕もこんな空間を作りたい。  流といつまでも和やかに過ごすために、僕たち、安心できる場所が必要では?  月影寺にも、こんな場所があればいいのに。  何人たりとも侵入を許さない。  僕たちだけの寛ぎの空間が欲しい。    この手で作り上げよう。    そんな使命感をこの時、初めて抱いた。 「翠くん? 急にいい顔になったね。そうだ、君は『行雲流水』という言葉を知っているか。君たちを見ていると、その言葉が浮かぶよ」 「あっ、はい」 「ぴったりだと思うのだが」  海里先生の言葉が一筋の光となる。 『行雲』は空を行く雲のこと。 『流水』は言葉通り流れる水のこと。  僕たち空を漂う雲や流れる水のように執着は捨て、自然に任せてみよう。    雲や水が移り変わるように、僕たちを取り巻く世界もいつか変わっていく。  超えるには高い、高い壁だ。    だが僕はいつか、壁の向こうの世界を見たい。  そのために僕は精進するよ。  一層の精進をする。  だから流、ずっと僕の傍にいておくれ。 「翠くん、よかったらまたおいで。深い悩みはここに置くといい。誰にも言えない苦しみは、ここで吐き出すといい……身体の毒となる前にね」  別れ際に海里先生がそっと僕に囁いてくれた。  この言葉が、後々僕を救うことになる。
/239ページ

最初のコメントを投稿しよう!

881人が本棚に入れています
本棚に追加