入相の鐘 1

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入相の鐘 1

 季節は巡り、夏から秋へと移ろいだ。 「ん……もう朝か……あっ、くそっ、またこんなになって!」  明け方、下腹部に熱が溜まるのを感じ、悶々とした気分で目覚めた。 「はぁ、仕方ないな」  この世から隠れるようにガバッと布団を頭まで被り、身体を折り曲げ、股間に手を伸ばし己を慰め始める。  こんなことがほぼ日課となっている。  こうでもしないと暴れ馬のように煩悩だけが暴走しそうだ。  翠の横で淡々と1日を過ごすために、必要な儀式なのさ。  美しい蓮のような男の裸体を妄想しながら煩悩を放つと、一気に目覚めた。  手拭いでざっと下腹部を清め、窓を開けて空気を入れ換えた。 「一気に涼しくなったな。秋の空気のように俺の心ももう少し落ち着けばいいのに」  秋風が身に染みるとは、このことを言うのか。 「覚悟を決めたと言え、長い道のりだ。俺は仙人ではないから仕方がないのさ」  そう自身に言い訳をして、開き直るしかない。  翠の目が再び見えるようになった時、俺の役目は終わり、再び前のような疎遠な関係に戻ってしまうと危惧したが、そうではなかった。  その答えは、もうすぐやってくる。  耳を澄ますと、ひたひたと静かな足音が聞こえて来る。 「よし! 今日も来てくれた」  足音は毎朝決まった時刻に、俺の部屋の前でぴたりと止まる。それから少しだけ躊躇いがちな、それでいて親しみのある声で呼ばれる。 「流、おはよう。もう起きている? そろそろ着替えたいのだが」  翠は今日も許してくれる。  俺に視力を失っていた時と同様に、身の回りの世話をさせてくれる。 「兄さん、おはようございます。今日の予定は午前中に2件の法要が入っています」 「うん、そうだったね。袈裟を見繕っておくれ」 「分かりました」  翠を隣の衣装部屋に連れて行く。  だが……替えを手伝わせてもらえるが、肝心な所は見せてくれない。  視力を失っていた頃は肌着の着替えも手伝えたのに、今はそれは不要だと凜とした瞳で制してくる。だから肌着を身に着けるまで、屏風の向こうで袈裟を見繕っている。  以前だったら熱視線を向けられたのに、今そんな危うい視線を放ったら、ばれてしまうだろう。  俺がどんなにあなたに恋い焦がれているのか。  相変わらず兄さんはすぐ傍にいるのに、よい香りがするのに、触れてはいけない存在のまま。  一体いつまでこの道を歩べばいいのか。  並行する道は本当に交わる日が来るのか。  それとも死ぬまで直線で突き抜けていくのか。   「流、いいよ。着せておくれ」 「あぁ」  袈裟という鎧を纏った兄さんに、迂闊には手は出せない。  だから持て余す気持ちの置き場がなくて苦しい。  俺も成人男子だ。かつては己の性欲に負けたこともある。兄さんが結婚していた期間は、時折新宿に繰り出して、面影が似た男を探し歩いた。だが見た目は似ていても兄さんのような品はなく、抱けばヤニ臭い息に辟易し、二度と続くことはなかった。  兄さんにふさわしくない身体になって永遠に兄さんを葬ってやると意気込んだが、いつか訪れるかもしれない淡い夢はどうしても消せなかった。  だから、もう二度と他の男は抱かない。  そう誓った。  ただ最近は精進し過ぎて、翠をたった一度でも抱けるのなら、地獄に落ちてもいいとすら思ってしまう始末だ。そんなことは絶対に出来ないのに。 「流、どうした? さっきから険しい顔だね。そんなに思い詰めないでおくれ。僕はずっと傍にいるよ。月影寺に骨を埋める覚悟だ。だから物騒な考えはよせ。さぁ、行くよ!」  兄さんは俺の脳内を覗いたかのような言葉を言い残し、本堂に向かってスタスタと歩き出す。  うなじから焚いた香の香りが溢れてくる。  待ってくれよ。  そんなに色香を振り撒かないでくれ。  匂いだけでは辛いんだ!  すると翠は途中で立ち止まり、微笑みかけてくれる。 「流、ごめんよ。僕たちの進む道は、由比ヶ浜の海で誓った通り同じだ。さぁ一緒に行こう」  まったく罪作りな人だ。  子供のように手を引かれて、苦笑した。 「兄さん、そんなに子供扱いしないで下さいよ」 「流の心が迷子になりそうだったから、しっかり掴まえておくよ」  その一言に、今日も救われる。  
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