入相の鐘 2

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入相の鐘 2

「もしもし、翠さん?」 「彩乃さん……」 「実は今、区役所にいるんだけど、薙の小学校入学の手続きでどうしてもあなたの書類が必要なことが判明して……こっちのミスで悪いんだけど、今すぐ来てくれる?」  それは突然の元妻からの呼び出しだった。  薙に絡むことならば急がねば。  僕は父に事情を説明しに行った。 「そうか、もうそんな時期なのか。そういう事情ならば、すぐに行ってやりなさい」 「ありがとうございます」 「流に送ってもらいなさい」 「ですが」 「そうした方がいい。まだ翠は電車は苦手だろう」 「……情けないです」 「翠や、そんなことは言わないでおくれ。お前が受けたショックを考えれば当然のことだ」 「すみません」  どうして父がそう言うのか。  それは、先月のことだった。  薙の面会のために、僕は渋谷までの道のりを急いでいた。  父の不在時にやってきた檀家の総代さんとの打ち合わせが長引いて、出発が遅れてしまった。流がさり気なく代わってくれなかったら、遅刻してしまう所だった。  なので、初めて一人で渋谷に向かった。  なんとかギリギリ辿り着けて、薙と面会に漕ぎ着けた。  だが薙は僕を見るなり辺りを見渡し、「今日はリュウさんは?」と少し寂しそうだった。 …… 「ごめんね。今日はパパだけなんだ」 「そっか……」 「えっと、何をして遊ぼうか。えっと公園でサッカーをする?」  薙がサッカーボールを持っていたので、誘ってみた。 「……別にしたくない」  そうか、流と遊びたかったのか。  そのことを悟ると、急に自信がなくなってしまった。 「……図書館にでも行こうか」 「それでいい」  僕がもう少し活発だったら、流みたいに逞しかったら違ったのかな。 「薙も来年には小学校だね。楽しみだね」 「別に……またおけいこがふえるだけだよ」 「……薙」  その日は図書館で薙は本を読み続けて、僕とは話してくれなかった。  なんとなく盛り上がらないまま、別れの時間を迎えてしまった。  薙の笑顔が見たかったな。  僕は不器用な男だ。  息子の笑顔をすら引き出せないなんて。  とぼとぼと歩き出すと、流が立っていた。 「え、どうして?」 「悪い。今、来たところだ」 「薙に会いたかったのに残念だったね」 「ん? それもあるが、兄さんに会いたかった」 「……馬鹿」 「え? いきなり馬鹿?」  流が明るく笑ってくれると、僕の心もいくらか上向きになった。 「ありがとう。帰ろうか。車はどこに停めたの?」 「あー悪い、渋滞していたから電車で来たんだ。今日は電車で一緒に帰ろう」 「そうだったのか。重ね重ね、ありがとう」  行きは勢いで乗ったので忘れていたが、僕は視力を失ってから電車が苦手になっていた。  電車が通り過ぎる時の轟音が怖くて、いつも耳を塞いで震えていた。でも視力が戻ってからは音は気にならなくなった。 「流、僕、もう一人で電車に乗れるようになったから大丈夫だよ」 「……まだ駄目だ。ひとりで焦るな」 「もう過保護だなぁ」  なんて軽口を叩いていたのに、電車に乗って暫くすると猛烈に気分が悪くなってしまった。  僕の傍に立った男性グループの一人に、心の中で悲鳴をあげた。  小太りの背の低い男、力が強そうな腕、下卑た笑いにぞっとした。  赤の他人なのに、少しでも克哉くんに似ているだけで心が拒絶反応を示した。 「兄さん、顔色が悪いぞ」 「……ごめん。ちょっと気持ち悪い」 「大丈夫か」 「……怖いんだ……その……似た人がいて……」 「……くそっ、次の駅で降りるぞ」  最後は流に抱えられるように下車し、化粧室で戻してしまった。 「タクシーで帰ろう」 「でも……」 「いいから」 ……  そんなことがあってから、僕は月影寺の外に一人で出るのが怖くなってしまった。  部屋でスーツに着替えて待っていると、流が作務衣姿のまま駆け込んできた。 「兄さん、待たせたな」 「流、ごめん。忙しいのに」 「いや、これは俺の最優先項目だから遠慮するなって。父さんと母さんからも頼まれているし」 「ごめん……ごめんよ」 「謝るな。兄さんのせいじゃない」 「……目が見えるようになって全てが元通りになると思ったのに……目が見えるのが怖いなんて情けないよ」  思わず弱音を吐いてしまった。  僕はいつの間にか、弟に弱音を吐けるようになっていた。 「俺が代わってやりたいよ。兄さんの心を守ってやりたい」 「流……」 「さぁ行こう。急ぐんだろう」  今度は流が僕の手を引いてくれた。  僕の心が彷徨わないように――    
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