入相の鐘 3

1/1
前へ
/239ページ
次へ

入相の鐘 3

「着いたぞ」 「ありがとう。行ってくるよ」  区役所の前で、僕は流の車を降りた。 「すぐに終わりそうか」 「それが……よく分からないんだ」 「ふぅん、じゃあこのまま駐車場で待っているよ。時間がかかるようならメールを入れてくれ」 「うん、分かった」  区役所で用件を済ましたら、Uターンして戻ってくるつもりだ。    なのにどうしても重い足取りになってしまう。  すると、流に呼び止められた。 「兄さん、どんなことになっても戻って来てくれ。何があっても俺はもう絶対に兄さんを拒絶しないから……どこかに一人で逃げるなよ」  意味深なことを……  だが流の強い意志を持った言葉は、僕の背中を押してくれる。  区役所のロビーに到着すると、香水の匂いが先に鼻先に届いた。  区役所に来るのに、こんなキツい香水を?  思わず眉をひそめてしまう。 「まぁ、翠さんってば、久しぶりに会ったのにそんな顔をして」 「彩乃さん……」 「こっちよ、来て」 「あぁ」  香水は個人の自由だ。  僕が口を出す話ではない。  なので我慢しよう。  だが薙に接する時は、せめてつけないで欲しい。  母親の匂いを、香水でかき消さないで欲しい。 「相変わらずね。いつも困った顔ばかり」 「……」 「でも元気そうで良かったわ」 「……ありがとう」  区役所の学務課と子育て応援課で、職員から説明を受けながら必要な書類にサインと印鑑を押した。 「翠さんが来てくれたから、上手くいったわ」 「……ちょっとよく分からないのだが、薙は学区の小学校には行かないのか」 「そうよ。あそこは評判が悪いから学区外の人気小学校を希望したのよ。本当はお受験させたかったけどそれどころじゃなかったからね」 「……通学時間が倍になってしまうのに?」 「翠さんには関係ないわ。薙の教育には口を出さない約束でしょ」 「……」  ぴしゃりと言われ、黙るしかなさそうだ。  気まずい雰囲気のままエレベーターで1階に降りた。 「じゃあ……僕はこれで」  そのまま別れようとしたら、いきなり腕を組まれた。  香水の香りがまとわりついてくる。 「何を言っているの? まだよ」 「えっ?」 「せっかくだし、ランチをしましょう」 「僕は済ましてきたから」 「私は薙の手続きに追われて、まだ食べてないのよ。付き合って当然でしょう」  そう言われたら断れない。 「もしかして誰かを待たせているの? あ、もしかしてお兄ちゃん想いの弟くんに、ここまで送ってもらったの?」 「……分かった、ランチに付き合うよ」  流が地下駐車場で待っていると言い出せなかった。彼女は元々流をよく思っていないから、どんな暴言を吐かれるか分からない。  彩乃さんは区役所を出てスタスタ歩き出す。どうやら行く店を既に決めているようだった。  流、ごめん。もう少しだけ待っていてくれ。  僕は必死に、心の中で詫び続けた。 「ここにしましょう」 「分かった」 「ここの最上階のレストラン、見晴らしがいいのよね」  最近出来た渋谷駅前の高層ホテル。  そこのレストランに行くことになった。  化粧室に彩乃さんが行った隙に、流にメールを出した。 「ごめん、事情があって昼食を一緒に取ることになった。だから先に帰っていてもいいよ」  すぐに返事が来る。 「待っているから、気にするな」 「でも……」 「どんなに遅くなっても、待っている」 「ごめん」 「謝るな、俺の意志だ」  流の言葉に無性に泣きたくなった。  僕はここで何をしているのだろう?  用件が済んだのなら、断っても良かったのでは? 「翠さん、入りましょう」 「やっぱり、よしておくよ」 「何を言っているの? あなたには付き合う義務があるのよ。薙の子育てを丸投げしてよく言うわ」 「それは……」  薙、薙……可愛い僕の息子。  出来る事なら一緒に住んで、傍で成長を見守りたかった。  でもそれは無理だ。    彩乃さんとの亀裂はどこまでも深い。  ここはやはり付き合うしかないのか。 「分かった。入ろう」 「ちゃんとエスコートしてよね」 「……行こう」  深呼吸して覚悟を決め、背筋を伸ばして歩き出した。 「翠さんのそういう凜とした所、好きよ。ふふっ、ほら、みんな見蕩れてるわ。お似合いの夫婦に、まだ見えるみたいよ」 「……」  意味が分からなかった。  彼女の考えは、僕には分からない。      
/239ページ

最初のコメントを投稿しよう!

881人が本棚に入れています
本棚に追加