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入相の鐘 3
「着いたぞ」
「ありがとう。行ってくるよ」
区役所の前で、僕は流の車を降りた。
「すぐに終わりそうか」
「それが……よく分からないんだ」
「ふぅん、じゃあこのまま駐車場で待っているよ。時間がかかるようならメールを入れてくれ」
「うん、分かった」
区役所で用件を済ましたら、Uターンして戻ってくるつもりだ。
なのにどうしても重い足取りになってしまう。
すると、流に呼び止められた。
「兄さん、どんなことになっても戻って来てくれ。何があっても俺はもう絶対に兄さんを拒絶しないから……どこかに一人で逃げるなよ」
意味深なことを……
だが流の強い意志を持った言葉は、僕の背中を押してくれる。
区役所のロビーに到着すると、香水の匂いが先に鼻先に届いた。
区役所に来るのに、こんなキツい香水を?
思わず眉をひそめてしまう。
「まぁ、翠さんってば、久しぶりに会ったのにそんな顔をして」
「彩乃さん……」
「こっちよ、来て」
「あぁ」
香水は個人の自由だ。
僕が口を出す話ではない。
なので我慢しよう。
だが薙に接する時は、せめてつけないで欲しい。
母親の匂いを、香水でかき消さないで欲しい。
「相変わらずね。いつも困った顔ばかり」
「……」
「でも元気そうで良かったわ」
「……ありがとう」
区役所の学務課と子育て応援課で、職員から説明を受けながら必要な書類にサインと印鑑を押した。
「翠さんが来てくれたから、上手くいったわ」
「……ちょっとよく分からないのだが、薙は学区の小学校には行かないのか」
「そうよ。あそこは評判が悪いから学区外の人気小学校を希望したのよ。本当はお受験させたかったけどそれどころじゃなかったからね」
「……通学時間が倍になってしまうのに?」
「翠さんには関係ないわ。薙の教育には口を出さない約束でしょ」
「……」
ぴしゃりと言われ、黙るしかなさそうだ。
気まずい雰囲気のままエレベーターで1階に降りた。
「じゃあ……僕はこれで」
そのまま別れようとしたら、いきなり腕を組まれた。
香水の香りがまとわりついてくる。
「何を言っているの? まだよ」
「えっ?」
「せっかくだし、ランチをしましょう」
「僕は済ましてきたから」
「私は薙の手続きに追われて、まだ食べてないのよ。付き合って当然でしょう」
そう言われたら断れない。
「もしかして誰かを待たせているの? あ、もしかしてお兄ちゃん想いの弟くんに、ここまで送ってもらったの?」
「……分かった、ランチに付き合うよ」
流が地下駐車場で待っていると言い出せなかった。彼女は元々流をよく思っていないから、どんな暴言を吐かれるか分からない。
彩乃さんは区役所を出てスタスタ歩き出す。どうやら行く店を既に決めているようだった。
流、ごめん。もう少しだけ待っていてくれ。
僕は必死に、心の中で詫び続けた。
「ここにしましょう」
「分かった」
「ここの最上階のレストラン、見晴らしがいいのよね」
最近出来た渋谷駅前の高層ホテル。
そこのレストランに行くことになった。
化粧室に彩乃さんが行った隙に、流にメールを出した。
「ごめん、事情があって昼食を一緒に取ることになった。だから先に帰っていてもいいよ」
すぐに返事が来る。
「待っているから、気にするな」
「でも……」
「どんなに遅くなっても、待っている」
「ごめん」
「謝るな、俺の意志だ」
流の言葉に無性に泣きたくなった。
僕はここで何をしているのだろう?
用件が済んだのなら、断っても良かったのでは?
「翠さん、入りましょう」
「やっぱり、よしておくよ」
「何を言っているの? あなたには付き合う義務があるのよ。薙の子育てを丸投げしてよく言うわ」
「それは……」
薙、薙……可愛い僕の息子。
出来る事なら一緒に住んで、傍で成長を見守りたかった。
でもそれは無理だ。
彩乃さんとの亀裂はどこまでも深い。
ここはやはり付き合うしかないのか。
「分かった。入ろう」
「ちゃんとエスコートしてよね」
「……行こう」
深呼吸して覚悟を決め、背筋を伸ばして歩き出した。
「翠さんのそういう凜とした所、好きよ。ふふっ、ほら、みんな見蕩れてるわ。お似合いの夫婦に、まだ見えるみたいよ」
「……」
意味が分からなかった。
彼女の考えは、僕には分からない。
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