入相の鐘 4

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入相の鐘 4

 まえがき  本日、地雷がある方は飛ばして下さい。 ****  高層階のイタリアン レストラン。  彩乃さんは昼間から高額なコース料理を頼んだ。  意に染まない昼食。  食事の匂いに紛れ込むキツい香水の香り。 「あら、翠さん、食欲ないの?」 「……」 「すっかり健康そうね。なんだか生き生きしているわね」 「そんなことは……」 「あら? じゃあ、まだ体調が悪いの?」 「いや、良くはなったよ」 「良かったわ。じゃあワインを飲みましょうよ」 「……それは無理だ」  今の僕は修行の身。  それに昼間から酒を嗜む習慣はない。  まして流を待たせているのだから、一刻も早くここから立ち去りたい。 「ふぅん、分かったわ。相変わらず生真面目な男ね」  会話なんて弾むはずない。    珈琲が出てきて、ようやくこの場から解放されると安堵したのも束の間。 「美味しかったけどまだ物足りないわ。この後、お部屋に行きましょうよ」 「えっ、何を言って?」  ここはホテルだ。  ホテルの客室で何を?  また意味が分からないことを。  怪訝に思っていると、とんでもない事を言い出した。  彩乃さんが声をひそめて話し出す。 「翠さん、抱いて」 「えっ……」 「なんだか、そういう気分なの。いつも私が言えば抱いてくれたじゃない」 「僕たちはもう離婚した身だ。何故そのようなことを言うんだ?」 「私がそうしたいのよ。そういう気分なの」 「無理だ」  流石にそれは無理だと、断ると…… 「あら、じゃあいいの? 私には男友達も沢山いるのよ。あなたが抱いてくれないのなら呼び出して遊んじゃおうかしら? 複数の男に抱かれるのも悪くないわ」 「やめてくれ、まだ薙は小さい。どうか母親としての立場を忘れないでくれ」  必死に懇願した。  薙の心を守ってやりたくて。 「じゃあ翠さんだけに抱かれるわ。それならいいでしょう。あなたは薙の父親なんだし」 「どうして……何故、そこまで? 僕との結婚生活を破棄したのは彩乃さんの方なのに」  口に出してはいけない一言を、言ってしまったのかもしれない。 「よく、言うわ。あなたの浮気が原因なのに!」  彩乃さんが声を張り上げたので、一斉に周りの人が振り返った。  僕は怖い。  逆上した人と接するのが怖くて、言いなりになってしまう。  心臓がバクバクしてくる。 「償ってよ!」  償う?  そうか……確かに僕は彩乃さんを隠れ蓑にしてしまった。  克哉くんの脅しが怖くて、大切な愛しい弟の流を守りたくて……  月影寺への未練を残して彩乃さんと結婚して子供まで。    全部、僕がいけなかった。  だが……努力したんだ。何もかも忘れて彩乃さんと家庭を築こうと、薙という宝物を授かった時に覚悟は決めたのに、全部僕の弱い心が招いてしまった……  これは罰なのか。 「……部屋に行こう」 「良かったわ。分かってもらえて。これからは私が求めた時は抱いてね。薙のお父さん」  結婚を決めたのは、彼女が明るく行動力があって魅力的な女性だと思ったから。だがそれはすぐに仮面だったと悟った。  本当の彼女は、思いやりのない自分本位な人だった。  だが僕に懐く可愛い息子との家庭を守りたくて、求めに応じて身体を重ねてしまった。  そして今日も――  高級ホテルの一室で、僕は彼女の手腕により男の本能を巧に暴かれてしまった。 「うっ……よしてくれ」 「どうして、ここが好きでしょう」  心と身体が分離するほどの狂おしい交わりを要求される。  自分が動物にでもなったかのような、欲に塗れた時間だった。  彩乃さんの白く艶めかしい裸体を見ていられず目を瞑ると、流の顔が浮かんだ。  流は責めるのではなく、受け入れるような静かな目で僕を見つめていた。  流、すまない――  もう流に合わす顔がないよ。 (兄さん、どんなことがあっても大丈夫だ。受け入れるから帰って来いよ)  別れ際の言葉を思い出し、汗と一緒に涙が滲んだ。 「ふぅ、翠さん……良かったわよ。あ、いけない、薙のお迎えの時間だわ。私は先に出るから払っておいてね」 「……」 「求める時はいつも抱いてね。これは償いよ」 「慰謝料なら……お金で」 「私はあなたがいいのよ」  彩乃さんがシャワーを浴びて、化粧をし直した。  最後に小さな香水瓶を取り出して、ワンプッシュ。  また最初に戻ったかのような、最悪な気分だった。  絶望という言葉が、今の僕には一番似合う。 「また連絡するわ」 「……」  僕はこれからどうしたらいいのか。  とにかく一刻も早くこの身体を洗いたい。  そう思ってシャワールームに駆け込んだ。  鏡に映る己の身体に吐き気を覚えた。  本能的に女性を求め抱いてしまう男の身体。  心臓の下には醜い火傷痕。  まるで僕の心のように醜い。 あとがき(不要な方は飛ばして下さい) **** こんな展開で😥 次話からは流と翠の話にしっかり戻ります。 流の心の成長を感じて欲しく、どうしても必要な1話でした。
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