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入相の鐘 5
地下駐車場で1時間ほど待った。
何となくの予感。
翠はすぐに戻って来ないと察した。
あの元妻がわざわざ東京に呼び出して、すぐに帰すはずがない。
これ以上地下にいると気が滅入りそうだから、地上に上がった。
区役所の正面玄関は、いろんな人が行き交っていた。
暫く壁にもたれて、通り過ぎていく人を眺めていた。
やがて……
エレベーターが1階に到着した瞬間、俺の鼻は過敏に感じ取った。
来る!
身を翻して隠れると、翠と元妻が並んで降りて来た。
翠は「ここで」と別れを告げたようだが、元妻が翠に手を伸ばし引き止めた。
甘えるように媚びるように。
やはり、ただじゃ帰さないつもりだな。
ここで俺がしゃしゃり出ると、兄さんがまた追い詰められてしまう。
そんな理由で身を隠す道を選んだ。
とはいえども、二人の行き先が気になった。
俺は、必ず翠の傍にいると約束したから。
行き先は区役所から10分ほど歩いた高層ビルで、上層階がホテルになっているようだ。
エレベーターはノンストップで上がり、最上階で停止した。
案内板でイタリアンレストランがあることを確認した。
「二人でランチか」
相変わらず自分勝手だな。翠は出掛けに昼食は済ましていたのに。
ここで翠から連絡が一度入った。
「ごめん、事情があって昼食を一緒に取ることになった。だから先に帰っていいよ」
それはもう知っている。
大丈夫だ、焦らなくてもいい。
翠を置いて俺が帰るなんて、天地がひっくり返ってもありえん。
「待っているから、気にするな」
「でも……」
「どんなに遅くなっても、待っている」
「ごめん」
「謝るな、俺の意志だ」
そう言いきったものの、その後、ホテルのロビーでひたすら待つことになった。
ランチなら1時間、長くても2時間程度だろう。
しかし、待てど暮らせど翠からの連絡は来ない。
嫌な予感がする。
もしかして?
ホテルのレストランということは、客室と直結している。
まさか……
二人は離婚したのに、まだ肉体関係を続けるのか。
元妻ならやりかねない。
あの日のことが今でも忘れられない。
薄い壁を隔てた場所に俺がいるのを知って、まるであの時の声を聞かせるかのように、兄さんの部屋で求めた人だ。
簡単には翠を解放しないつもりなのか。
自分本意な我が儘な行為が、翠の心をどんなに傷つけるか知っているのか。
相手の気持ちを思い遣ったことはあるのか。
沸き起こる狂おしいまでの怒りは、必死に流した。
深呼吸を繰り返し、瞑想した。
ここで俺が逆上し翠をひとりにしてはいけない。
どんなことがあっても傍にいると約束したのだから。
責任感が強く父親としての自覚を持っている翠だから、薙を引きあいに出されたら断れない。彩乃さんもそれを知って痛いところを突いて来る。もしかしたら『償い』というご都合主義の言葉を振りかざしたのでは?
兄さんの急所を突くとは、なんて酷いことを――
翠の心の悲鳴が聞こえる。
『すまない、流……すまない。僕はどこまでも汚れている』
そんな悲痛な声が。
否――
違う。
翠は翠だ。
何があろうと俺の翠なんだ。
翠の色が濁りそうになったら、俺が流してやる。
俺が綺麗さっぱり忘れさせてやる。
だから、どうか――
逃げるな。
残酷な匂いに顔をあげた。
元妻が勝ち誇った表情を浮かべて降りてきた。
ハイヒールの音が甲高く耳障りだ。
区役所で見かけた時よりも艶めいた女の顔をしていた。
つけたての香水の香りに、膝の上の手をキツく握った。
やはり……翠を求めたな。
翠に抱かれた顔をしている。
あの日の朝のように――
その事がショックなのではなく、翠が自暴自棄になっていなかが心配だ。
翠、どこにいる?
俺を呼べ。
大丈夫だ、怖がるな。
俺は全てを受け入れる覚悟で傍にいるのだから。
それから更に1時間後。
心の整理をつけたのか、翠から連絡が入った。
「流、心配かけてすまない。今日はこのまま一人で帰りたい。お願いだ。一人で帰らせてくれ」
「駄目だ、絶対に一緒に帰る」
「だが……僕は……」
「どんな翠でも構わない。俺が連れて帰る」
「……ごめん、何も聞かないで欲しい。今何か聞かれたら、車から飛び降りてしまいそうだ」
物騒なことを、俺を置いて逝くなんて許さない。
絶対に。
「聞かないよ。だから頼む、姿を見せてくれ。翠の姿が見えないのが怖い」
「……僕も……流がいないのがとても怖い。だから流の元に戻ってもいいか」
「当たり前だ。そうしてくれ! 区役所の駐車場で待っている」
「……ありがとう」
これでいい。
俺は大丈夫だ。
翠が一緒に、同じ場所に帰ってくれるから――
さぁ月影寺に帰ろう。
俺たちの家に。
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