入相の鐘 8 

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入相の鐘 8 

 海里先生が、僕の背中を何度も優しく擦ってくれる。  まるで大海原に漂っているような心地だ。  穏やかな波が心地良い。  涙が自然に浮いてくる。 「うっ……ううっ」 「ここで泣いていきなさい」 「……はい」  僕は先生の前で、心の赴くままに泣いてしまった。  こんなに泣くなんて……  いい大人が泣き過ぎだ。  海里先生は「止めようとしなくていい。翠くんはここでは泣いていい」と優しく声をかけて下さる。 「いいかい? ストレスで涙が出るのは体の自然な反応だよ。小さな子供は嫌なことがあるとすぐに泣くだろう? だが大人になるに連れて人前で泣くのは恥ずかしいと教育され、感情を抑えるようになってしまう。すると必然的に健康に支障が出るんだ。君はストレスで視力を失ったことがあるから、俺の話を理解できるね」 「はい……」  あの頃は泣く場所がなかった。  彩乃さんのご実家の寺では、次期住職の座を密かに狙う親族が僕の失敗を待ち望んでいたので、気が抜けなかった。家では彩乃さんの理想の夫を演じなければならず、安らげなかった。北鎌倉の実家へは彩乃さんがいい顔をしないので、帰り難かった。  そしてあの頃の僕には……流がいなかった。    泣く場所がどこにもなかったから、ストレスで視力を失ってしまった。 「ストレスによって涙が出るのは、ストレスを軽減するための自己防衛反応とだ。だから今の翠くんには、心置きなく泣く場所が必要だ」 「先生、僕は弱いです。だから……このようなことが続けば、また……きっと視力を失ってしまう。弟が見えなくなるのが怖いです」  切実に訴えてしまう。  流、僕の流…… 「翠くん、大丈夫だ。人は弱い生き物だ。だから大切な人と寄り添って生きているんだ。俺と柊一が生涯の伴侶として、いつも一緒にいるようにね」 「ですが、僕は……」 「今は……だが、この先は分からない。どんなカタチでも、いつも横には流くんがいる。だから君は俯いていないで、ちゃんと隣りにいる流くんの顔を見てやりなさい」  海里先生には、車中での僕の様子がお見通しのようだ。 「泣いたらスッキリしました。無性に流の顔が見たくなってきました」 「よし」  パンっと手を叩かれた。 「え?」 「今日の治療はここまでだ」 「今の……治療だったのですか」 「ふっ、俺は医者だよ。君の心の主治医だ。またおいで、君の過去を置きにおいで」 「はい、他にも話したいことがあります」 「あぁ、聞くよ。あまり時間を空けないで……おいで」 ****  兄さん、今、海里先生の元で、心を浄化しているのか  まだ兄さんの全てを支えきれなくてごめんな。  もっともっと精進するから、待っていてくれ。  それまでは海里先生を頼ろう。  実は海里先生には一度相談した。  俺の悩みを打ち明けた。  実の兄を好きだと、愛していると……  だが兄さんを今は苦しめたくないので影に徹することを誓い、兄さんの全てを一生支える覚悟でいることを宣言した。  その時、先生から深い言葉をもらった。 …… 「君の『流』という名前に答えがあるようだ」 「どういう意味ですか」 「俺が留学時代に学んだ諺があって、君たちを見ているとそれを思い出すんだ。君は『Still waters run deep.』の意味が分かるか」 「……それは……どういう?」 「『深い川は静かに流れる』という意味さ。深い川は浅い川のように水音を立てないだろう。つまり分別のある人、思慮深い人は、ゆったりと落ち着いて、やたらに騒がないということさ。君たちは……流れ着きたい場所があるようだから、教えておくよ。強弱をつけて上手に流れていけばきっと……」  流という名前の意味には、もうひとつあったのか。  勢いよく流れる『流』だと思っていたが、時にはゆったりと落ち着いて流れることも必要なのか。 ……  今日の俺は、後者の『流』になろう。  兄さんに元妻が何をしようと、深い川が流れるごとく悠然とした態度を貫き通そう。ここで兄さんを責めるまた仲違いするのは相手の思う壺だ。  俺たちはもっと先の未来を見据えて生きて行くのだから。  今日の出来事は通過点に過ぎない。 「海里先生、ありがとうございました」 「また、おいで」  兄さんが海里先生の家から出て来た。  波打ち際に立っている俺の元へ、真っ直ぐ歩いてくる。  戻ってくる、俺の元へ。 「流、待たせたね」 「兄さん、お帰り!」  翠は憑きものが落ちたように、すっきりした顔をしていた。 「流……」  俺の前に立つと、兄さんは泣き腫らした目で華やかに微笑んで、俺をふわりと抱き締めてくれた。 「えっ?」 「ふふ、流の匂いだ」 「あ……汗臭いだろ?」 「うーん、嗅ぎ慣れているからなんとも」 「ははっ、よく母さんが俺だけ臭いって」 「ふふ、僕は好きだよ」 「兄さん……」 「流、ありがとう。さぁ……もう帰ろう」 「あぁ」  俺たちはまた肩を並べて、歩き出す。  帰る場所はずっと一緒だ。 読解の補足です(長文ですみません) 端折ってしまった部分があったことに、今頃気付きました。 申し訳ありませんが、この流れを経てになります。 どうも彩乃さんの話をあまり書く気になれず……で飛ばしてしまったようです😅 翠が彩乃さんの実家で邪険にされていた理由は『重なる月』の『天つ風36』で書いた内容と関連しています。https://estar.jp/novels/25539945/viewer?page=1547&preview=1 彩乃さんは一人娘で翠を婿養子に取りましたが、実は彩乃さんのご実家、秋風寺には父親の親族も関わっていました。次期住職の座を狙う一味がいたという感じです。だから翠は歓迎されていた感じでもなかったようです。彩乃さんの父親も多忙な人で目が行き届かなかったので、翠を擁護することはなかったという悲劇。翠が浮気して娘を捨てたと思われていて、薙への風当たりも強かったのです。 肝心の彩乃さんはというと……仏門に全く興味がなく、大学出専攻した西洋美術の分野のスペシャリストを密かに目指していました。父親が強引に養子取りを進めて、でも翠は好みのタイプだったので結婚して一時はその夢をしまいます。翠と別れるまでは専業主婦で、薙の子育てに夢中でした。 なので翠と別れた当初は職もなかったので、実家のお寺に身を寄せますが、めきめき西洋美術の方面で力をつけ美術館に就職し企画などの業務に携わり忙しくなってきます。しだいに薙への関心が薄れて、自分の仕事に夢中になっていくのです。その後は、重なる月の流れで薙を月影寺へ。 説明不足でごめんなさい!
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