入相の鐘 9

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入相の鐘 9

 吹っ切れたような翠の顔に安堵した。  涙の乾いた跡に、しっかり泣けた事を知る。  翠、待っていてくれよ。  俺、もっともっと心も身体も鍛えるからさ。  翠が安心して泣ける場所になる。  全部、海里先生と誓ったことだ。  兄さんが極度のストレスを浴びた時は、真っ先に海里先生に託す。  それは俺が自分で決めたことだ。  実は事前に俺の覚悟を先生に知って欲しくて、一人由比ヶ浜の診療所を訪ねた。 …… 「ん? 今日は休診日だったか」  病院の扉には新しい張り紙が貼ってあった。 『医師の都合により月・水・金のみの診療とします』  そうなのか。    思いきってインターホンを押すと、柊一さんが出てきた。 「こんにちは。急にすみません。あの、休診日が増えたんですね」 「そうなんです。海里さんも僕も歳を取りましたので、もう少しゆっくり過ごしことに」 「そうなんですね。あの海里先生と話すことは出来ますか」 「どうぞ」  海里先生は休診日なので、ラフなミルクティーのような色のセーターを着ていた。 「今日は医者ではないが」 「その方が都合がいいです。今から話すことは……そういう内容です」  と前振りをすると、海里先生は納得したように微笑んでくれた。  気高い白薔薇が似合う、高貴な微笑み。  それでいて人の心を深く思い遣る慈悲力、包容力を兼ね備えたお方だ。   「君たち兄弟が抱えていることは、大体察しが付いているよ」 「え?」    お見通しだったのか?    いつの間に……  口が重くなってしまう。  今から話すことは、他人には話したことがない。  だが、この人になら……  今後兄さんに泣ける場所を提供してくれるのは、この人しかいない。  だから俺の気持ちを知って欲しい。 『先生……俺は実の兄が幼い頃から好きでした。好きになるのが当然のように好きになりました。運命のように恋をして、今この瞬間も兄を愛しています」  兄弟の愛を超えて、生涯の伴侶として男が女を愛するように、俺は兄を愛していると包み隠さず伝えた。 「……流くん、よく話してくれた。俺は君の友人として受け止めたよ。いいか、よく聞きなさい。もしも君たち兄弟が将来、実兄弟の禁忌を超えて、その先を臨むのなら……その前にすべきことがある」 「それは?」  先生から二つのことを助言された。  一時的に翠の心を置く場所になるが、近い将来には俺がその役を受け止めるようになる必要があると。だから翠の心を壊したくないのなら、深い川の流れのように生きていけと。  もう一つは翠と協力して、安全な場所を作ることを助言された。  先生は、都内のある場所に、外部の人が容易く近づけない、男同士が安心して愛し合える場所を作ったと仰っていた。 「俺もいずれはそこに戻るんだ。白薔薇を張り巡らせたおとぎの国だよ」 「いばら姫のようですね」 「ふっ、何しろ白亜のお城のような建物だからね。君たちはお寺の子だから結界を張るといい」 「結界ですか……なるほど」  海里先生から助言されたことを実現させていけば、いつか翠をこの腕で抱ける日が来るかもしれない。  そんな希望の光のような言葉をいただいた。 「先生のおかげで道が開けたようです」 「役に立てて良かったよ」  海里先生はふっと甘い笑みを浮かべた。 「俺にもそういう時期があったよ。柊一を想って夜な夜な……そうだ、流くんも我慢し過ぎるのは身体に毒だぞ」 「は?」 「君の健康のためにも、しっかり手淫はすること! 君は涙で流すのではなく、そっちだな」 「はぁ?」  いきなり、そこ? 「いや、君からは男の色気が溢れて……溢れんばかりの精力を感じるからさ、ははっ、眩しいよ、俺にもそんな時期があった」  最後は笑顔で別れた。  この人ならば兄さんを安心して任せられるという確信を持てた!
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