入相の鐘 10

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入相の鐘 10

 渋谷のホテルでは、何度もシャワーを浴びた。  僕の身体から彩乃さんの香水の匂いは取れたはずなのに、今だ客室に微かに残る彼女の残り香を感じ苦悩した。  部屋の大きな鏡には、彩乃さんと肌を合わせた我が身が映っている。    心をなくして情欲のままに暴れた身体は、男の本能のままに突っ走ってしまった。  こんな浅ましい姿は、流にだけは見られたくない。  しかし冷静に考えれば、彩乃さんがここまでの暴挙に出たのは僕のせいなのだ。  そう思うと居たたまれない気持ちにもなった。  結局僕は何をしたかったのだろう? 子供まで授かったのに父として最後まで踏ん張れず、薙にも悪いことをした。  自己嫌悪にまみれ、帰る場所を失い、身体を休ませる場所もない。  もう疲れた。  もう……この世から消えてしまいたい。  僕はホテルの客室から窓の下を見下ろした。  だが、これは違うと顔を上げた。  僕はこんなことをするために、この世に生を受けたのではない。  もっと大きな悲願を達成するためでは?  心を必死に整え、意を決して流に連絡した。 「……そんなわけで、ここにやってきました。渋谷から由比ヶ浜の道のりは、心がざわついて、流と顔を合わせられなかったです」 「そうか、そんな事情が君にはあったのか」  僕が今日仕出かしたことを海里先生に打ち明けると、僕を非難することもなく、静かに優しく深く受け入れてくれた。 「翠くん、よく耐えたな。心と身体が真逆の動きをした時は神経がすり減り、障害が起こりやすい。人はそんな時突拍子もない行動に出てしまうことがある。だが、君は君の力でそこは耐え抜いた。今日は大変だったな。頑張ったな」  そう言って下さり、ボロボロと涙が溢れた。 「泣いて、すっきりするといい。君には流くんがついている。帰る場所、戻る場所がある」 「はい……」  海里先生の家を出ると、流が波打ち際に立っているのが見えた。  無性に流に触れたくなった。  僕から流を抱きしめたら、流は僕にまた触れてくれるか、また笑ってくれるか。    流も躊躇いがちだったが、僕の背中に手を回してくれた。  だから僕はほんの一瞬だけ弟を超えた対象として抱きしめた。  すんと嗅ぐと流の匂いがして、ほっとする。 「ふふ、流の匂いだ」 「あ……汗臭いだろ?」 「うーん、嗅ぎ慣れているからなんとも」 「ははっ、よく母さんが俺だけ臭いって」 「ふふ、僕は好きだよ」 「兄さん……」 「流、ありがとう。さぁ……もう帰ろう」 「あぁ」  そこから少しふざけあって、僕たちはまた兄弟に戻っていく。  由比ヶ浜から北鎌倉までの間、今度はハンドルを握る流の姿を見つめた。  もう目は逸らさない。 「兄さん……どうして、そんなに見つめる?」 「そうしたいから、心のままに……」 「そうか……いいか、何度も言うが、何があっても翠が戻る場所はここだ。どんなことがあっても帰って来い」 「うん、今日は海里先生に会わせてくれてありがとう」 「あぁ、翠、俺たちには共通の目標が出来たようだな」 「流と二人で目指す場所があるから、目標に向けて精進していくよ。僕たちは、まだまだ未熟だからお互いに頑張ろう」 「あぁ」  そこがどこかは、今はまだ互いに口にしない。その時が来たら、僕も流も同じ場所で見つめ合うから、分かるだろう。  それでいい。 「兄さん、着いたぞ」 「ふぅ、無事に戻って来られたんだね」 「あぁ、どうする? もう夕刻だが袈裟に着替えるか」 「うん、着たい。流、着替えさせてくれるか」 「御意」  また日常に戻ろう。    流との未来に辿り着くには、あといくつ試練を乗り越えたらいいのかは分からない。  だが一つだけ確信を持てたことがある。  僕の傍には、いつもどんな時でも流がいる。  流がいるから生きていける。    
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