入相の鐘 11

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入相の鐘 11

 今日は、一刻も早く翠に袈裟を着せてやりたかった。  若い頃は、袈裟は俺との距離を隔てるものに見え、一刻も早く脱いで、ただの『兄さん』に戻って欲しいと悶々とすることもあった。  だが、これからは違う。  翠の心を守る鎧になる。  俺は心を無にして、手早く袈裟を着付けた。 「あぁ、やっぱり落ち着くよ。流……今日は本当にありがとう」 「いいか、翠は絶対に一人で行動するな。これからも東京への送迎は俺がする」  兄さんは一瞬目を見開いたが、覚悟を決めたように静かに頷いた。  きっと元妻は、これからも翠を求めてくるだろう。  きっと翠は断れない。  向こうには薙がいて、それを盾にされているから。  翠は心から息子を愛している。そして俺も、翠によく似た顔立ちで俺に似た性格の薙が心から愛おしい。  きっと……長男気質で責任感の強い翠だから『償い』という言葉に縛られているのだ。  翠がその呪縛から解かれる日がいつなのか分からない。  だが、翠が目指す場所が俺と同じ場所だと思えるようになった今、俺はどんなことがあっても待つ覚悟だ。  もう焦って、何もかも台無しにはしたくない。  それまでは俺は翠を守り、翠に仕える。  翠の衣食住は俺が面倒を見る。  何もしないから、手出しはしないから、せめてそれだけはさせてくれ。  切実な願いは翠に届く。 「だから……僕は流に全てを委ねる。衣食住の全てを……」  衣服と食物と住居、生活するうえで必要な基礎だ。 「それは俺が不可欠ということか」 「そうだ、僕は流がいないと生きていけない」 「そうか」  今はその言葉だけで、充分だ。  その時、入相の鐘が鳴る。  寺で勤行の合図として日没の時に鳴らす鐘の音が心に響く。 「さぁ、行こう、読経をしたい」 「わかった。俺も一緒にするよ」  その晩……  俺は皆が寝静まった後、一人で風呂に入った。  こんな遅い時間に一人で入浴するのには意味がある。  海里先生にも許可をもらったことだしな。  湧き上がる情欲は、己で吐き出すしかない。  今は――  どこにも辿り着けない白い飛沫だが、いつかきっと届く日がくる。  それまで俺は他の女も男も抱かない。  翠が元妻を抱いた事実は……正直に言えば辛い。  だが耐える。  この先も定期的に抱かないといけないかもしれない。  それも耐えてみせる。  だからどうか、俺に希望の光を。  風呂場で身体を清め、部屋に静かに戻る。    翠の部屋の前で立ち止まり、心の中で「おやすみ」と……  夜が明ければ、またいつもの日々がやってくる。  月影寺に結界が張り巡らすことが出来た暁には、全てが報われる。  それが俺の希望だ。  朝日が昇る前に、兄さんが俺を呼ぶ。 「流、起きているか。着替えを」 「御意」  さぁ、ここからが新しい一歩だ。  その日に近づくための一歩だ。  前に進もう!                    『入相の鐘』   了
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