待宵 1

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待宵 1

 初めて海里先生に相談に行った日を契機に、俺たちは失敗を立て直した。  二人の気持ちはようやく揃い、同じ方向へと歩み出したのだ。  ただしどこを目指すのか、何を求めるのかは、互いに口にはしなかった。  月影寺に結界を作りあげるまでは、秘密だ。  中途半端な告白は相手を苦しめるだけで、周囲に漏れる危険もある。  気高い翠が後ろ指をさされるようなことがあってはならない。  遠い遠い昔、他人から咎められて口惜しかった気がするのは何故だろう?  俺ではない誰かの記憶、とても親しい魂を持つ人の記憶だ。  一体それがいつの記憶かは分からぬが、警告として鳴り響いている。  二度と同じ過ちをを繰り返さないためにも、ここは耐え忍ぶ。  最初に翠が元妻から呼び出されてから半年経った。残念ながら、彼女からのコールは続いている。  彼女の欲情のままに、翠は都内のホテルへ呼び出される。  元妻を抱くだけのために翠は都内へ向かい、俺は黙々と送迎する。  それは月に1度あるかないかだったが、俺たちにとって拷問のように重く辛い時間だった。  夫婦の愛はもう消えてしまったのに、どうして彼女は翠との肉体関係を求める続けるのか。  おそらく元妻は元妻なりに、捨てきれない未練があるのだろう。    それは俺にも痛い程分かる。翠を突き放した後も尚、未練が捨てられず、夢の中で……  けっして彼女に同情しているわけではない。俺たちには彼女の誘いを断る事が出来ない理由があるからだ。  それは月に一度会える薙との憩いの時間に直結していた。  彼女を抱くと、薙と会わせてもらえる。  そんなの理不尽なことを、元妻は堂々とやってのけた。  薙を物のように扱うなんて。  そんな条件をつけないと翠は息子に会えないのか。  薙は翠の実の息子でもあるのに――  離婚ってなんだ?  親権ってなんだよ?  怒り狂いたかったが、必死に耐えた。  彼女が情熱を燃やせるものが他に出来た暁には、解放されるのか。  その日を待とう。その日は必ずやってくる。  俺たちの準備が整えば、自然と……  そんなわけで、酷い言い方をすれば……翠の肉体を代償にして薙との面会は定期的に続いている。  薙は1年生になった。  父親との面会日は、彼女が張り巡らせたお稽古地獄の息抜きと捉えているようで、ゆっくりしたい時は屋内で、思いっきり身体を動かした時は外で遊んだ。  今日は、ずっと公園でサッカーをしている。  翠も一緒に珍しく汗をかいていた。翠は静のイメージが強いが、運動が苦手なわけではない。むしろサッカーの腕前もなかなかだ。  つまり文武両道なのさ!  眉目秀麗な翠は相変わらず凜として美しい。  そして小学生になった薙は、ますます翠に似てきた。 「リュウさん、オレ、こんどはサッカーのしあいをみにいきたいな」 「へぇ、薙は『オレ』って言うようになったのか」 「うん、母さんは怒るけど、オレはオレだ!」 「はは、頼もしいな。お前は自我が目覚めるのが早そうだな」 「そうかな?」  翠そっくりな顔で、男っぽい性格。  このギャップが良い。  翠の足りない面、俺の足りない面。  翠の良い面、俺の良い面。  ぜんぶミックスされている。 「薙は俺と兄さんのいいとこ取りだよな」 「……ほんと? あーあ、オレ、おじさんの子がよかったな」 「へぇ? 兄さんとオレの子ってことか」 「あれ? それってなんかヘン?」 「はは、悪くない。実際こうやって会っている時は、薙は俺の息子の気分だ」  ニッと笑うと、薙もニッと笑った。  その様子を、兄さんは目を細めて静かに見つめていた。  冷静を装っているようで、うっすら頬が赤いのは気のせいか。  そうだ、それでいい。  そうやって俺を意識し続けてくれよ。  いつか辿り着く日まで、兄さんの胸に生まれた微かな炎を絶やさないで欲しい。 「おっと、もうこんな時間か」 「えー もっとあそびたい」 「また来月会おう」  薙との別れは、正直辛い。  ずっと一緒にいたくなる程懐いてくれているから別れ難い。それにこれが終わると、次は兄さんが元妻を抱く番が来てしまう。  こんなこと、いつまで繰り返せばいいのか。  夜な夜な、俺は己を慰め続けている。もう少し淡泊な人間に生まれたかったが、俺は海里先生に指摘された通り、人より性欲が強い。  いや誰にでもじゃないぞ。  兄さんへの思いだけが募っていくんだ。    さてと今宵も己を慰めるとするか。今日は何を…… 「流、何を考えている?」 「あ、いや」  今日は兄さんの何をおかずにしようかと考えていたなんて死んでもいえねーな。 「流の方がすごい汗だね。ほらちゃんと拭かないと、風邪を引くよ」  兄さんは自分の汗を拭いていたタオルで、俺の額の汗を拭ってくれた。  兄さんの汗と俺の汗が混ざっていく。  決めた! 今日はこれだ。 「兄さん、このタオル、このままもらっていいか。汗びっしょりでさ」 「うん? 元はといえば流が選んだものだよ」 「サンキュ!」 「じゃあ、また違うのを用意してくれ。僕は流が買って来たものは何でも好きだ」  あぁ、こんな些細なことでも嬉しいなんて――  兄さんが俺に全てを委ねてくれるのが、生きていく糧となっている。 ****    流が触れたものからは、流の匂いがする。    だから好きなんだよ。  これは僕だけの秘密だ。    
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