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街宵 8
今、隣の部屋では、翠が海里先生の治療を受けている。
あんなに見せることを嫌がった火傷痕を診てもらっているのだ。
つい先程のことだ。
海に佇んでいると、海里先生が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「流くん! 早く来てくれ」
「翠に何かあったのですか」
「すまない! 熱い紅茶がこぼれて翠くんにかかってしまったのだ。すぐに処置したが、俺たちのせいで辛い過去を思い出してしまったようで……意識を失って」
「‼」
診療所のベッドに駆けつけると、翠は気を失って眠っていた。
すぐに応急処置をしてもらったようで、上半身には首元まですっぽりと清潔な布団が丁寧に被せられていた。
「着ていた洋服を駄目にしてしまった。申し訳ない」
海里先生が真摯に詫びられたので、俺は首を横に振った。
「大丈夫です。似たような服は家に戻れば山ほどありますから……それよりすぐに処置して下さりありがとうございます。これ以上、翠の身体に火傷痕が残るのは気が滅入るだけですので」
翠が視力を失っている間、介助のため何度か目にした惨い火傷痕。
翠が他人に見られるのを嫌い、ひた隠している部分だ。
「……こじあけるつもりはなかった」
「いえ、何故かこうなる運命だった気がします。海里先生になら翠は話せるかもしれません。翠の心に蔓延った辛い記憶を置かせてやって下さい」
「翠くんにはまだ俺に話せない辛い過去があるのは察していた。だから今日、俺の方から申し出るつもりだった」
「ありがとうございます。目覚めたら……きっと翠もそうしたいと願うと思います。俺はまだ力不足で役立たずで……悔しいです」
「流くんのシャツを着せてあげなさい。きっと勇気が出るだろう。翠くんにとって流くんは特別な存在だから」
まだ意識を取り戻さない翠に、俺のシャツを着せてやった。
ぶかぶかなのも可愛らしく、愛おしさが増した。
俺の愛しい人だ。
「じゃあ、お願いします」
「……翠くんからのアクションが肝心だ! きっと今日がその時になる!」
海里先生が高らかに宣言する言葉は、まるで魔法のようだ。
「それにしても……君たちの未来を見届けることが出来ないのが残念だ」
「どこかに行かれるのですか」
「柊一の具合も悪いし、私もいい歳でね。そろそろ『おとぎ話の世界』に戻ろうと思っている」
「そうなんですか……残念です」
翠の心の治療は、もうしてもらえないのか。
肩を落としていると、海里先生が俺の肩に手を置いて励ましてくれた。
「大丈夫だ。翠くんに俺が出来る限りのことは施すから、あとは流くんの出番だ。君たちの未来は明るいよ。俺には見える。君たちは互いの痛みも喜びも分け合って生きていくんだ。辿り着く場所が同じだから出来ること」
1時間、いや2時間ほど経っただろうか。
待っている間、俺は翠と歩んだここまでの日々を反芻していた。
幼い頃の淡い気持ち、思春期になって目覚めた欲情に戸惑い一喜一憂した日々。
俺たちの大切な思い出を、黒いマジックで塗りつぶすようなあの出来事。
俺の翠の清らかな肌に醜い物を植え付けたアイツが憎い。
真っ黒な憎しみで埋もれそうになっていると……
控えめなノック音が聞こえた。
「入ってもいいですか」
「柊一さん! 倒れたと聞きましたが」
「もう大丈夫です。あの……先程は翠さんに申し訳ないことをしました。お許し下さい」
「大丈夫です。適切な処置をしていただきましたし、それより柊一さんの具合が心配です」
儚く微笑む柊一さんは、今にも消えてしまいそうだった。
「ちょっとショックなことが、昨晩あって……」
「どうかしたのですか。やっぱりどこか悪いのですか」
「いえ……僕は大丈夫です。若い頃に無理したせいか、すっかり虚弱体質になって海里さんに心配ばかりかけて……そのせいかな。彼が……」
その先の言葉は呑み込んでしまった。
「今のうちに……これを渡しておきたくて」
手渡されたのは、あの日見せてもらった真っ二つに割れたさくら貝だった。
「これは流さんが持っていて下さい。翠さんと二度と離れないように」
「でも……」
「僕には海里先生がいるので大丈夫です。どんなことがあっても、ずっと一緒です」
「ありがとうございます」
「どうかお元気で」
この日の会話が柊一さんとの最後の会話になった。
だがきっと彼等はいつも一緒だと思う。
二ヶ月ぶりに由比ヶ浜の診療所を訪れると、もう二人の姿はなかった。
もしかして……長い人生の終焉の時が近かったのだろうか。
ほんの偶然からご縁をいただき、希望を下さった二人との交流は、翠と俺にとって大切な出来事だった。
「流、帰ろうか」
「いいのか、探さなくても?」
「もう大丈夫だ。心の治療はしてもらった。あとは……」
翠が明るい瞳で俺を見つめる。
「あとは?」
「僕には流がいる。だから大丈夫だ」
「翠……」
「お二人の永遠の幸せを祈ろう」
「あぁ、あの二人はどんな時も一緒だ」
「僕たちもだよ。さぁ帰ろう。月影寺へ」
波打ち際を、二人で肩を並べて歩き出した。
俺たちの足跡は波が来れば消えてしまうが、隣を見ればいつも翠がいる。
それが全てだ――
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