街宵 13

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街宵 13

「母さん、ご馳走さまでした」 「まぁ、全然食べてないじゃない。やっぱり食欲がないのね」  母が夕食に作ってくれたお粥は、一口しか食べられなかった。 「すみません。まだちょっと……」 「いいのよ、無理しないで、もう横になりなさい」 「はい」 「さっきはごめんなさいね。私たち久しぶりに孫に会えて有頂天になって、配慮に欠けていたわ」 「いえ、そんなことないです。僕が悪いんです、全部僕が……」  僕はどうして薙にあんな言い方しか出来なかったのか。    あれでは僕が、薙を追い返したようだ。    そんなつもりは微塵もなかった。    だが結果、幼い息子の繊細な心を深く傷つけてしまった。  もう誰も傷つけたくないのに、何故僕はいつもこうなんだ。  父親なのに、薙を守ってやれないなんて。  口惜しさ、歯痒さを噛みしめていた。  熱がまた上がってきたのか、悪寒がする。  酷い頭痛だ。  横になろう、もう寝てしまおう。  立ち上がるとくらくらと目眩がした。  よろけて咄嗟に柱に掴まると、母さんが飛んできた。 「翠。目は……視力は大丈夫なの?」 「はい、ちゃんと母さんの顔が見えます」  不安そうに僕の顔を覗き込む母。  その表情にまた胸が押し潰されそうになる。  結局、僕はこうやって、心配ばかりかけてしまう。  まだまだだ。  もっと精進せねば……  月影寺を、誰にも侵されない場所にするために。 「翠、どうか気を落とさないで。離婚の条件が不利過ぎるせいよ。でも翠に非があったわけじゃなの。だからそんなに自分を責めないで。どんな姿でもいいの、翠が生きていてくれたら、どうかありのままの姿で幸せになって欲しいわ。あなたに跡取りとして意識し過ぎて、厳しく育ててしまったのね。だから、あなたは逃げ道を見つけられなかった」  母の言葉といい、海里先生の言葉といい、生きて来た分の重みのある深い慈愛を含んだ言葉だ。  ありがたい。   「そんなことないですよ。僕は父さんと母さんの元に戻ってこられて嬉しいです。少し休めば良くなります」  こんな時は月を――  月に救いを求めてしまうよ。  窓から見上げる月は、冴え冴えと美しかった。  今頃、薙も都会のネオンの隙間から同じ月を見上げているかもしれない。  そう思うと、少しだけ元気が出た。  夜空に浮かぶ月に願いをかけよう。  いつか薙とまた暮らせますように。    どうか手遅れになる前に、僕の元に薙を。  そのために今は耐えます。 ****  帰れないよ。  薙は強がって一人で部屋に向かった。  渋谷の高層マンション。その部屋番号から俺は瞬時に部屋の位置を割り出し、外から確認したが真っ暗だった。  やっぱりな。  あの女は、まだ帰宅していない。  そんなことじゃないかと案じていたんだ。    新しい仕事に夢中のようで、そっちを優先するんじゃないかと。  やがて、部屋の電気がぽつんとついた。    薙がつけたのだ。  まだ9歳の子供に、暗くなってから留守番させるなんて最低だ。  今すぐ部屋に乗り込んで、薙を連れ去りたい衝動にかられるが、そんなことを勝手にしたら、ますますこじれるだけだ。  俺はマンションの下で地団駄を踏んだ。  もどかしい。  全部流して薙ぎ倒してやりたいよ!  こんな所に立っているのを見られたら、それもまた厄介なことになるな。  森 彩乃という女性は、何かにつけて昔から俺を見る目が冷たい。もしかして女の勘で何か勘付いていいるのか。  いや、そんなはずはない。ただ極度のブラコンだと思っているだけだろうが、用心しないと。  少し離れた場所から、薙の部屋を見上げていると、窓が開いた。  薙なのか、おい、危ないぞ。  早く部屋に戻れ。  そう思うと咄嗟に、兄さんから聞いた番号へ電話をかけていた。  窓はすっと閉まる。  そして電話に薙が出る。 「……もしもし?」 「俺だよ。俺!」 「流さん……どうしたの? 帰ったんじゃ」 「いや、言い忘れていたことがあって。今度会えるのは薙の誕生月だから、兄さんと一緒に三人で遊園地に行こうぜ」 「えっ、遊園地?」 「そう、野球場の隣の遊園地に、すごいコースターが出来たんだってさ」 「行く! 行きたい!」 「よーし、楽しみにしてろ」  一気に声が明るくなってほっとした。まだまだ無邪気な面があって良かった。 「いいか…これだけは忘れるな。俺と兄さんは、薙が大好きだ」 「そ、そういうの、はずいって」 「ははっ、どうだ? 身体がポカポカしてきただろう」 「う、うん……」  そんな話をしているうちに、母親が帰宅したようだ。  焦った様子でロビーに足早に駆け込む姿に、ほんの少しだけ安堵した。  頼む。  どうか薙を大切にしてくれ。  薙の母親として、幼い子供の幸せをまず考えてくれよ。    頼むから。
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