暗中模索 3

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暗中模索 3

「あれがいい!」 「よし、あれに乗ろう」  僕たちはグリーンのコーヒーカップに乗り込んだ。 「あのね、これだけ星のマークがついていたから、絶対これがいいって思ったんだ」 「よかったな」 「えへへ」  無邪気に笑う薙。  子供らしい笑顔に安堵する。  よかった。  まだ失っていない。  彩乃さんと二人暮らしの日々の詳細は知らない。  彩乃さんは一斉関わるなと近寄らせてくれないし、薙も多くは語らない。  だが先ほどのように、ぽろりと漏れる事実に胸が塞がる。    だからこそ、せめて今だけは全てを忘れて笑って欲しい。  笑顔は生きる力になる。 「父さん、本当に回転させても大丈夫?」  中央のハンドルを意気揚々と握りしめた薙に聞かれた。 「うん。大丈夫だよ。好きなだけ回していいよ」 「……兄さん、きつかったら眼を閉じてろよ」 「大丈夫だよ。流と乗ったことがあるし……あの時もかなり高速回転だったしね」 「そうだったな。お、動き出したぞ」 「わぁい、やった!」  大柄な流と僕、薙の3人で狭い空間で顔を見合わせることは滅多にないので不思議な感じだったが、居心地の良い場所だった。  ここには、僕の大切な人だけしかいない。  何も恐れることはない場所だ。    やがて景色が回り出す。  くるくる、くるくると僕たちのコーヒーカップが高速回転していく。    まるで迷宮に迷い込んだみたいだ。  僕は出口が見つからなくて焦り、あてもなく歩き回って途方に暮れている。  この感覚は……まるで僕の頭の中みたいだ。  考えがまとまらなくて、ぐるぐる行ったり来たり。    少し目が回ってきた。  目に入ってくる視覚情報と、実際に体で感じる平衡感覚の情報とがずれるため、脳が異常な動きをしていると判断して酔ってしまうと聞いたことがある。  僕はそっと目をつぶり、静かに耐えた。  するとさり気なく流が肩を抱いてくれた。 「兄さん、俺に掴まれ。俺は濁流に呑まれない」  力強い、僕の弟の声がする。  しばらくすると、二人から声をかけられた。 「兄さん、大丈夫か」 「父さん、大丈夫? ごめん、回し過ぎちゃった」 「え……あ、もう終わったの?」 「立てるか」 「父さん、オレにつかまって」  二人が僕に向かって手を差し出してくれる。    僕はその手を掴んで立ち上がった。 「ありがとう」  そうか、自分で出口を見つけられなくて怖くても、大切な人の声が、大切な人の手が届けば、それが脱出への糸口に、道標になるということか。 「父さん、もう大丈夫?」 「あぁ、大丈夫だよ」 「よかった。また具合悪くなっちゃったかと心配したんだぞ」  薙がぷいっと顔を背ける。  そういう所も流にそっくりだね。 「大丈夫だよ。薙、何か飲もうか」 「うん! あそこにお店があるよ。あ……」  薙の言葉が突然止まったので、視線の先を確認すると綿菓子が売っていた。 「綿菓子を食べたいの?」 「……あれは……母さんが虫歯になるからダメだって」 「今日はお誕生日なんだ。特別に買ってあげるよ」 「いいの?」 「もちろんよだ」 「あのね……」  薙が口ごもる。 「ん? どうしたの?」 「あのね……一緒に食べてくれる?」 「なんだ、そんなことか。もちろんだよ。最初から味見させてもらうつもりだった」 「わぁ」  薙はまだたった10歳だ。  愛情を注げば注ぐだけ、笑顔の花を咲かせてくれる年頃だ。 「この綿菓子でかいなー 俺の顔ほどあるぞ」 「コホン……特大サイズにしたんだ。3人で食べるからね」 「雲みたいですごい! いただきまーす」 「じゃあ父さんも食べよう」 「おいおい、二人してずるいぞ。俺にも食わせろ~」  僕が綿菓子の端っこをつまむと、流が逆側からガブッとかじりついた。  さてと、薙はどうするかな? 「オレも~」  ガブッと綿菓子の真ん中に顔を埋めた。 「薙~ 髪についちゃうよ」 「えへへ、雲の中みたいだよ。流さんはおじいさんみたい」 「え?」  横を見ると、流は口の周りに綿菓子をつけていて、まるで白い髭のようだ。 「ぷっ、ははっ、流、いい歳して……もうっ」 「あはは、父さんにもついているよ」 「え?」 「頭の上に綿菓子がついているよ」 「えぇ、あ、流の仕業だな」 「へへん、兄さんだけ澄ましているからさ」  じゃれ合う兄弟に、息子も混ざって、僕たちは道ばたで大きな声で笑ってしまった。  いつぶりだろう、こんなに無邪気に笑うのは――  流がいて薙がいると、世界はこんなに明るくなるのか。
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