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春隣 4
本堂を覗くが、父さんと兄さんの姿は見えなかった。
ということは、あっちか。
ここではなく母屋から渡り廊下で繋がる離れの一つ。
『月影庵』にいるのだろう。
円窓から四季折々の景色が見え、床の間には我が家に伝わる大切な和歌の掛け軸が掛けられている。
あそこは、張矢家だけの大切な場所だ。
おそらく丈の無事の帰宅を感謝して、住職と副住職とで熱心に読経しているのだろう。
月影庵の入り口に佇むと、すぐに翠が俺の気配を察してくれた。
視力を失っている期間に、研ぎ澄まされた感覚なのだろう。
伏せていた目を開き、真っ直ぐに俺を見つめてくれる。
切れ長の二重、左目下の黒子、憂いを帯びた瞳は泉のようだ。
あなたは俺の心を満たしてくれる人。
俺はこの視線を浴びるだけで、極楽に行ける。
翠には話さなくても、俺がここに来た理由が伝わった。そして俺も翠の考えていることが手に取るように分かる。
区切りの良い所で読経を終え、客間にやってくるだろう。
ならば――
俺は一足先に、忍び足で客間に戻ることにした。
何しろあの堅物の弟が狼狽え腑抜けになっている様子が、気になってしょうがない。
翠にバレたら、はしたないと怒られるが、廊下で耳を澄ませば……
やはり二人の会話は筒抜けだった。
「お二人さん、壁に耳あり障子に目ありだぜ」
二人の会話にニヤリと口角が上がった。
「洋、大丈夫か。父さんは私に似て寡黙な人で、あまり喋らないかもしれないが、悪い人ではないので安心しろ」
「分かった」
へぇ、人に興味を持たず人を気遣うのが大の苦手なお前が、相手の立場に立って、そんなフォローをするのか。
「流兄さんはいつもあんな調子だ。揶揄うのが大好きで、私も小さい頃から鬱陶しくなるほど弄られたもんだ」
ははっ、その通り! その答えは100点だ!
「へぇ……意外だな。丈のそんな姿。いつも落ち着いて静かなのに」
まぁ、そうだよな。丈はいつだって冷静で淡々としていたさ。
「それから翠兄さんは、事前に話した通り、流兄さんの二歳年上の兄だ」
「うん」
それで、それで?
丈にとって、翠はどういう兄なんだ?
興味津々に身を乗り出すと、ペシッとお尻を叩かれた。
「これ、流、はしたない」
「うわっ、父さん、すみません」
やべー 翠じゃなくて父さんに怒られちまった。
「ふっ……流、待っていてくれてありがとう」
翠は、優しい微笑みを浮かべていた。
あぁ、だから好きになる。
昔から俺にだけ特別甘い人のことを――
父さんは紫色の法衣で落ち着いた雰囲気を醸し出し、翠は紺色の法衣で若く清涼な空気を放っていた。
翠の袈裟は、俺が誂えて、俺が見繕って、俺が着せたんだから当然さ。
「父さん、入りましょう」
「あぁ、流も一緒に入りなさい」
「はい」
俺たちは厳かな雰囲気で、丈と洋くんの待つ部屋に入った。
よしっ、これで三兄弟が揃った。
8年ぶりに集まった。
ずっと欠けていたものが合わさるような確かな手応えを感じていると、翠が小声で呟いた。
「あぁ……月が満ちていくようだね」
俺たちの心は、今日もぴたりと揃っている。
ここは長い月日を経て、辿り着いた場所だから。
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