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春隣 5
今日はなかなか集中出来ないな。
このような事は珍しい。
先ほどから僕はずっと胸の奥に喜びを感じている。
何故、丈が帰ってくるというだけで、こんなにも胸が高鳴るのか。
すると、ふっと流の匂いを感じた。
近くに来ているのだな。
弟の匂いにこんなに過敏になったのは、きっと視力を失っていた時、いつもすぐ傍で感じていたからだ。
あの頃は介助のため、いつも僕に触れてくれた。その温もりが懐かしいよ。
男らしい精悍な香りが汗と混ざると、僕の心はざわめいてしまう。
不安ではなく期待で。
顔を上げると、月影庵の入り口にやはり流が立っていた。
(流、来たのか。もう少ししたら客間に行くよ)
僕たちは目と目で語り合えるようになった。
ようやくだ。
ようやく、ここまで来た。
だが、この先へ進むにはどうしたらいいのか分からず、足踏みをしている。
同時に月影寺に結界を張り巡らせても、どうしても塞げない穴があるのを感じていた。
それが丈の帰国という一報を受けて、塞げる予感がしたのだ。
長い間……僕たち三兄弟のうちの一人が欠けていた。
それが今日満たされる。
これには深い意味があるのでは?
読経の区切りが良い所で、父に声を掛けた。
「父さん、来たようです」
「そうか、丈が戻ってきたか」
「はい、行きましょう」
客間に向かうと、流が廊下で聞き耳を立てていた。
その様子に流もまた、丈の帰りを待ち侘びていたのだと知る。
父さんは叱ったが、僕は叱れなかった。
僕も同じことを……はしたなく、してしまいそうだからね。
襖を開き客間に足を踏み入れた瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。
丈が連れてきた男性から目が離せない。
月のように冴え冴えとした美貌。
少しの陰りと少しの明かり。
彼はまるで月の精のようではないか。
彼が放つ気が、月影寺に広がっていく。
月影寺に、月光のような人がやってきた。
気持ちを持っていかれそうになって、必死に踏みとどまった。
まずは挨拶からだ。
そこから全てが始まるのだから。
「丈、久しぶりだな」
「お父さん、ご無沙汰してすみません」
「お前が急に帰って来て泊まっていくなんて、珍しいこともあるものだな。大学に入ってからこの家に寄り付かなかったのに、いや責めている訳ではない。帰って来てくれて嬉しいぞ」
父が目尻に皺を寄せて笑っている。
末っ子の丈を、父は可愛いがっていた。周囲に溶け込めないのを心配して海外出張に同行させたりといつも気遣っていた。その時の名残りを感じる。
僕もなかなか心を開いてもらえなかったが、ずっと大切な弟だと思っていたよ。もちろん今もね。だから受け入れよう。
今の丈のすべてを。
「丈、お帰り。待っていたよ」
「翠兄さん、ありがとうございます。いつも気に掛けて下さって」
丈の隣の男性は、俯いたままだ。
父が丈に声をかける。
僕もそれに合わせて、当たり障りのない会話から始めた。
「ところで、丈、そちらの方はどなただ?」
「丈が友人を連れてくると聞いてはいたが、こんなに若くて美しい人だなんて驚いたよ」
「丈に友人か。いいことだ。お前は幼い頃から寡黙で独りでいることが多かったから、父さんは嬉しいぞ。さぁ紹介しておくれ」
目を細めた父親に見つめられて、丈は改めて居住まいを正した。
しかし一体どのような関係なのだろう。
丈とこの男性は……
まだ僕にははっきりと掴めない。
「父さん、実は彼は友人ではなく、私と一緒に暮らしている大切な人で、崔加 洋さんと言います」
「えっ、一緒に暮らしている? 大切な人? 丈、一体それはどういう意味だ?」
一緒に暮らす?
韓国での同居人なのだろうか。
でも『大切な人』とは?
流行る心は静めないと。
あぁ、でも……この男性と丈の関係が気になって仕方がない。
「つまり私の生涯のパートナーです」
丈が堂々と言ってのけた言葉に、月のような人は真っ赤になった。
僕は雷に打たれたように驚いた。
「丈っ、なっ何を言い出すんだ!」
「洋、すまない。やはり父と兄に嘘はつけない。後々本当のことを言うよりも、この人たちには最初に告げた方がいいと思ったのだ」
「そんな」
「父さん兄さん達、すみません……突然の報告で」
「えっ? あぁ、えっと」
父は言っている意味が分からないといった様子でポカンとしている。
僕はまだ事態がよく飲み込めないでいた。
パートナーって?
生涯のって……えっ……つまり、そういうことなのか。
月のような人は、今度は真っ青になり、僕よりももっと焦った様子だった。
「あっ、あの、違うんです。俺はただの友人です。それで……すみません。こんな家族水入らずのところにお邪魔して、デリカシーないですよね。あっ、あのもうこれで帰ります」
今にも立ち去る勢いな所を、丈に手首を掴まれてぐいっと引っ張られた。
丈の表情にハッとする、
こんな弟は知らない。
秘めたる熱が漏れてくる。
お前は全身全霊で、彼を守り想っているのか。
「洋、逃げるな」
「だが……」
彼の動揺は激しく半ばパニック状態でその手を振り解こうともがいている。
そこに流の明るい声が降ってきた。
「ってことは、君は丈のお嫁さんになるのか」
皆が振り返ると、流が湯呑を乗せたお盆を持って、ニカっ笑っていた。
「よっ嫁?」
「そうだよ。つまりこの張矢家のお嫁さんってことだろう」
「はっ?」
……嫁??
えっと、少し頭の中を整理させておくれ。
父は呆気にとられて、僕はおそらく怪訝な表情を浮かべ、丈は真剣な眼差し、流は愉快そうに腰に手を当て笑っている。
このような四人の様々な思惑の視線を一気に浴びては、彼が気の毒だ。
長兄である僕がこの場を取り繕わないと。
一気に兄モードになっていく。
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