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春隣 9
流の熱い視線を感じる。
角を曲がるまで、ずっと感じていた。
さっき……『翠』と熱の籠もった声で、僕を呼んでくれた。
流の心の声が漏れたのだろうか。
それが、とても嬉しかったよ。
振り返った時、流の手は僕へと向けられていた。
あの手で僕を掴んでくれたら、僕は理性を失えたかもしれない。
ふっ、何を馬鹿なことを。
ここは月影寺。
僕にはまだすべきことがある。
まだここは完璧ではない。
そう感じていた理由が、これではっきりした。
丈と一緒にやってきた彼の心を癒やすのが、先決だ。
そうすることで何かが紐解かれ、何かが変わる。
そんな予感で満ちている。
一歩一歩、危うい道だからこそ確実に。
僕にも、きっと近い将来……
眼前にそびえ立つ高い山を駆け上がる日がくるだろう。
その時は、流と手を繋いで――
進む道の先に、希望が見えた出来事だった。
****
「丈、待たせたな」
「あっ、流兄さん」
汚れた服を脱がしていた丈は顔色を変えて、彼の前に立ち塞がった。
「おいおい、そんな怖い顔すんなって。ほら、蒸しタオルと浴衣持って来たぞ」
「あっ、すみません」
丈は俺が用意したものを奪い取り、彼を隠すように背を向けた。
「じろじろ見ないで下さい」
「おいおい、男同士だろ? 減るもんじゃないし」
「洋は……とても繊細な男です」
「だが今は意識ないだろ?」
「そんな問題じゃ」
妙にピリピリしてんな。
恋人の裸を見せたくない気持ちは分かるが、今はそういう場合では?
「あれ? これは……おかしいな? どうすればいいのだ?」
「おい、どうした?」
丈がもたもたしているので振り返ると、浴衣を上手に着せられないで困っていた。
「馬鹿だな。袖はそうじゃない。俺がきちんと着せてやるよ」
「ですが……」
「お前なぁ、意地を張るな。このままじゃ彼が風邪引くだろう」
「……すみません。では……お願いします」
「そんなに心配なら、そこで見張ってろ」
洋くんの肌はきめ細かく真珠のように輝いていた。
だが男にしては華奢過ぎる身体が、何故か痛々しく感じた。
彼に浴衣を着せていると、不思議な既視感に包まれた。
遠い遠い昔……
今日のように意識を失った彼に、浴衣を着せてやった記憶が浮かんできた。
俺の横には心配そうに彼を見つめる翠の姿も……
なんだ? これは……
「兄さん? どうかしました?」
「何でもないさ。さぁこれでバッチリだ。俺をちゃんと見張っていたか、丈先生いや、丈刑事か~」
わざとおどけると、丈は申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「すみませんでした」
やっぱりお前は変わったな。
前は、こんな風に素直に謝れなかったよな。
まぁそれは俺も同じだが。
「先ほどは過敏に反応しすぎました。少し事情があって」
「……ここは月影寺だ。お前も気づいたと思うが、ここはとても安全で安心な場所だ」
「はい、だからここに連れてきました。ここで休ませてやりたくて――」
その事情が何か、今は聞かない。
だが俺はこの意識を失って眠っている洋という男に、好感を抱いた。
この寺で養生して、本来の自分を取り戻せるといいな。
翠も俺も、君を守る。
まるで末の弟が出来たような、あたたかい情を感じていた。
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