春隣 11

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春隣 11

 丈と一緒に、月影寺を案内した。  翠のお達しもあるが、なにより、ここがいかに安全な場所か、洋くんに知ってもらいたい。 「洋、そこは足元が悪い。こっちを歩け」 「洋、あまり流兄さんに近寄るな」  おいおい、丈の奴、まるで護衛の武官のように立ちはだかってんな。俺は取って食いやしないって。    『翠』命だからな。    洋くんは可愛い末っ子気分って奴さ。  だが丈が心配する気持ちも分かる。  凜とした面もあるようだが、まだまだ繊細で脆い面が全面に出ている。    まるで、何かに怯えているようだ。  放っておけないな。 「洋くん、この先もずっと寺の敷地だ。北鎌倉でも一番奥にある寺だから敷地だけはな」  彼の目には何もかも新鮮に映っているようで、次第に美しい顔に血の気がさし、瞳が輝き出した。  へぇ、いいな。君はその方がずっといい。    それにしても見れば見るほど、息を呑むほど美しい顔立ちだ。同時に不思議な懐かしさが、再びこみ上げてくる。  遠い昔、こんな風に……弟のように可愛がっていたのは誰だったか。 「本当にかなり広いですね」 「山寺らしく広い敷地に本堂や離れが点在し、長い渡り廊下でつながっているんだ。山に近いから自然の美しさ溢れる庭が自慢だ。そうだ、梅の木も沢山あるよ。もう少し経てばこの冬枯れの景色に色が添えられて、また一段と風情が出るだろう」 「梅の木ですか、いいですね」 「他にもいろんな木が植わっているさ。おいおい教えるよ。それより具合はどうだ?」  彼は頬を染めて、頷いた。 「すみません。さっきは……もう大丈夫です」 「そうか、じゃあ最後に月影庵に寄ろう」 「月影……庵?」 「張矢家のための庵だ」  案内すると、父と翠が中で写経をしていた。  翠は、こうやって1日に何時間も、次期僧侶となるべく跡取り修行を受けている。  奢ることなく、ひたむきなのが翠らしい。  俺たちの気配に気付いた翠は筆を止めて、たおやかな笑みを浮かべる。 「洋くん、もう具合はいいの? とても心配したよ。さぁここにお座りよ」 「あっ、はい。さっきはすみません」 「ここにどうぞ、丈も一緒に」  洋くんは部屋をぐるりと見回した。  外の世界に興味があることはいいことだ。  満月のような円窓からは、今日は冬枯れの水墨画のような景色が見えている。  お! 目聡いな。  床の間の掛け軸が気になったらしい。もしかして古典文学に興味があるのか。掛け軸の和歌を変体仮名を瞬時に読み取り、抑揚をつけて口ずさんだ。 『月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ』 「洋くん、この歌の意味分かるの?」  俺も聞こうと思ったが、翠も同じことを考えていたらしい。 「あっ……いえ」 「この和歌はね、法然上人の代表的な一首で、鎌倉時代の勅撰和歌集『続千載和歌集』にも選ばれているものだよ。それに、ほらここを見てご覧」  翠が指さしたのは、掛け軸に描かれ、花のような月の紋。 「あっ」 「これはね浄土宗の宗紋であって『月影杏葉(つきかげぎょよう)』と呼ばれるもので、この月影寺は浄土宗で月と深く関係がある寺なんだ」 「……月ですか」  洋くんは『月』という言葉に、過敏に反応していた。  月と言えば、浴衣に着替えさせた時、彼の白い胸に月輪のようなネックレスがかかっていたな。  象牙のような洋くんの肌に、しっとりと吸い付くようで意味ありげだった  思わず彼の胸元に手を伸ばし、月輪のネックレスに触れてみた。 「あっ」 「これさ、いいね。月の形だよな」  翠も月輪を見つめ、納得した表情で洋くんに『月のない夜でも、心に月を思い浮かべて月光を宿すこともできる』という言葉を贈った。  その言葉に、洋くんはとても感動していた。    彼の頭の中は覗けないが、彼にとって月は丈なのだろう。  俺にとっての月は翠だ。  いつだって目を閉じれば浮かんでくる。  翠の楚々とした姿、凜とした姿、優しい微笑み。  闇夜であっても、翠のたおやかな微笑みが、俺を照らしてくれるのさ。    そんなことを考えていると、洋くんが意を決したように口を開いた。  勇気を振り絞っているのが、膝の上の握りこぶしから伝わってきた。 「お父さん、翠さん、流さん、聞いてもいいですか」 「なんだい?」 「俺を本当にここに受け入れてもらえるのですか」 「もちろんだ」 「じゃあ、ここで……丈さんの側にいても?」 「もちろんさ」  俺も翠も同じ気持ちだ。  ぴたりと揃った声が、月影庵内に力強く響く!  すると、最後まで黙って事の成り行きを静観していた父が、すっと手をかざした。  父の手は仏のように慈愛に満ち、そのまま洋くんの頭を労るように優しく撫でた。  その途端、洋くんは感極まった様子で「うっ」と嗚咽を上げた。 「洋くん、泣くなよ。さっきから言っているだろう、俺は最初から大歓迎さ」  痛々しい。  何をそんなに怯える?  ここは安心安全な月影寺だぞ?  明るく話しかけてやると、彼は美しい瞳を潤ませていた。 「ありがとうございます。俺……こんな展開……予想していなかったので」 「洋、良かったな。だから言ったろう? 皆、洋を受け入れているから安心しろ」  おぉ? お前本当に丈なのか。  今までも見たことがない程、柔らかく朗らかな笑みを浮かべていた。  柔らかく受け入れることで、洋くんの緊張を解こうとしているのだろう。    翠にとっても丈の変化は新鮮だったようで、目を見開いていた。 「いいね。丈のこんなに嬉しそうな顔、見たことはなかったよ。お父さん、どう思われます?」 「あぁ、どのような形であっても息子の幸せは嬉しいものだ」  父さん、ありがとう。  その言葉、糧にするよ。  父さんの望む道ではないかもしれないけれども、俺はこのまま突き進む。  いつか翠と交差するまで。 「いい言葉ですね……とても」  翠がわずかに見せる素の感情。  ほんの少し羨望の眼差しで二人を見ている気がして……嬉しくなった。  手応えを感じる。  いつかが、ぐっと近づいたのでは?  
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