春隣 14

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春隣 14

 丈が戻ってきた。  同性の麗人を連れて――  あの日から、彼らは月影寺に留まっている。  流れるように自然に、彼らの生活が、ここで始まった。  洋くんは、人に慣れていなかった。  この寺に辿り着くまで、世間から隠れ、ひっそりと生きてきたのだろうか。  あまりに神々しい美貌は、いつも緊張で張り詰めて苦しそうだった。  流が根気よく明るく接し続けると、たまに、ふっと緩んだ顔も見せてくれるようになった。  洋くんが微笑むと月光が差すようだ。  彼は独特の魅力に溢れた人だ。  最近は、早起きをして朝食の準備を手伝ってくれている。流は助手が出来たと喜んでいたが、朝から焦げ臭い匂いが漂い、食器の割れる音が連日のようしているので苦笑してしまった。  洋くんは僕と似ているのかな?  とても、とても不器用なようだ。  流は気にすることもなく、朝から豪快に笑い、楽しそうだ。  不器用でも手伝ってくれる気持ちが嬉しいんだね。  分かるよ。  流も僕も、新しく出来た末の弟の健気な姿に癒やされている。  役に立ちたいのに立てないもどかしさを抱える洋くんに、声をかけてみた。 「洋くんも写経をしてみないか。心身が整うよ」 「是非! 興味がありました」    僕の誘いに、二つ返事でやりたいと言ってもらえて嬉しかった。  さぁ、今日も、そろそろやってくる頃だ。  すると襖越しに綺麗な声がする。 「おはようございます。今日もよろしくお願いします」 「おはよう! 早速始めようか」 「はい」  洋くんはすっと姿勢を正して呼吸を整え、浄水を硯に少量ひたし、静かに墨を磨った。墨が飛び散るのはご愛敬ということで。  僕も合掌し『四弘誓願(しぐせいがん)』、『般若心経』を唱えて静かに筆を取った。表題から書き始めると心は無になり、煩悩から解放され静かに落ち着いていく。  こうやって僕は夜中に溜まった禁断の欲情と別れを告げる。  だが、この別れは一時的なもので、また夜になると溜まっている。  その繰り返しだ。    その後は、洋くんの予定を確認するのが日課になっている。  実は彼はこの寺に来てから、まだ一歩も外に出ていない。写経の後は、書斎で翻訳の通信教育の勉強をしているようだ。  今日もきっとそうするのだろうと思いつつ、訊ねてみた。 「ところで洋くんの今日の予定は?」 「あの……今日は外出します」    えっ? 珍しいな。  急に心配になってしまう。  過保護すぎるかもしれぬが、妙な胸騒ぎがするよ。 「一人で大丈夫? 心配だな」 「翠さん、俺はもういい歳の大人ですよ。迷子になるとでも?」 「いや……そういう意味ではなく……それで、どこまで行くの?」 「横浜駅です。語学学校の課題を提出し、講義を受けてきます」 「そうか、頑張っているんだな」 「ありがとうございます。夕方には戻りますので」  退出する洋くんの背中を見て、ますます不安になった。  洋くんは危ういほど美しく艶めいているので……横浜の繁華街で妙な輩の目に止まったら大変なことになるのでは? 彼の骨格は男性にしては華奢で、嗜虐的な嗜好を持っている人の標的になってしまいそうだ。 「洋くん、待って。やはり心配だ。流を呼ぶので一緒に行きなさい」 「そんな、一人で大丈夫ですよ」 「僕達がそうしたいから従いなさい。どうも洋くんを一人で行かせるのは不安を覚える」  まるで箱入り娘のように扱われて、洋くんは一瞬困惑したようだが、すぐに納得した笑顔を浮かべてくれた。    僕たちの愛情が届いたのだろうか。  穏やかな表情を浮かべてくれて安堵した。 「じゃあ流の支度ができ次第、出発するといい」 「分かりました」  流を呼ぶと、すぐに了解してくれた。 「俺もそうした方がいいと思いますよ。兄さんの判断は間違っていません」 「そうか」  少しの間の後、流が苦しげに呟いた。 「……間違ったのは俺です……あの雪の日、兄さんを一人で行かせなければ……俺が本を取ってくれば……」 「馬鹿だな、そんな昔のこと掘り返してどうする? 僕はもう忘れたよ。今こうして僕らは寄り添って生きている。それが幸せだ」  流は泣きそうな嬉しそうな顔で、僕を見つめた。  その胸に飛び込んでしまいそうな衝動に駆られ……また僕の心に欲情という厄介なものが溜まってしまった。  この欲は厄介だ。    写経や読経で静めても、すぐに顔を出す。
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