882人が本棚に入れています
本棚に追加
春隣 17
月影寺に、丈と洋くんがいる。
そんな新しい生活が軌道に乗った頃、いつになく覇気のない様子で洋くんがやってきた。
「……流さん、おはようございます」
「洋くん、おはよ! あれ? 目の下にクマ出来ているぞ。眠れなかった?」
「いえ、そんなことはないです」
「ははん、じゃあ丈に眠らせてもらえなかった?」
わざと揶揄って元気づけてやると、洋くんは百合の花が咲くように笑ってくれた。
「流さん、朝からふざけないで下さい」
おぉ、だいぶ打ち解けてくれたな。
やっぱり君も、笑顔の方がいいぞ。
「よし、それくらい元気があったら大丈夫か」
「……ありがとうございます」
「なぁ、無理だけはするなよ。心配事があるなら相談に乗るぞ」
「……はい」
いいか、本気で思っているんだぞ。
何かあってからでは遅いのを、俺はいやという程学んだ身だから。
あの日もあの日も、翠は「大丈夫、何でもないよ」と言って、俺の心配をすり抜けていった。その間、ずっと……胸の傷がどんどん酷くなるのに、一人で耐え忍んでいた。
「どうした? ぼんやりして……もしかして出かけるのか」
「いえ、今日は……ずっと、ここにいる予定です」
ここにいたいです。
そんな悲痛な叫びが聞こえたような。
何かに怯えているのか。
ここにいたいのに、行かないとならぬ場所があるのか。
「少し疲れているようだから、今日はゆっくりしろ。後で一緒に茶でも飲もう。前に話していたお抹茶の点て方を教えてあげるよ」
「本当ですか。ありがとうございます!」
早速、茶道具を持って洋くんのいる離れに向かうと、誰かと電話中だった。
ぼぞぼぞと暗い声。
何を話しているかまでは聞き取れない。
外で待っていると、洋くんが沈痛な面持ちで出てきた。
上着を着て、手には鞄を持っている。
「やはり出かけるのか」
「あ……そうなんです。涼のことでちょっと」
涼くんの話は、丈から報告を受けたばかりだ。あの雑誌モデルの青年は他人の空似とは思えなかったが、やはり血縁者だったのだな。
「昨日丈から聞いたよ。従兄弟のモデルやっている子が怪我して入院したって」
「はい、そうなんです。そのことで東京まで行ってきます」
「一緒に行くよ」
「えっ、いや大丈夫です。10歳も年下の従兄弟に会うのに面目が……」
洋くんは気まずそうに目をそらした。
嘘をついているのでは?
つい疑い深くなってしまうのは、長年翠の嘘に気付けなかったからだ。
「本当に大丈夫です。俺も一応男なので……」
「そうだな。悪い」
洋くんには洋くんの世界があり、自尊心だってある。
あまり介入しすぎても良くないか。
何より、洋くんには丈というパートナーがいる。
よし、ここは丈の判断に任せよう。
「分かったよ。丈にはちゃんと伝えるんだぞ。どうも洋くんは危なっかしいから心配だよ」
「……はい」
「おっと、お客さんが見えた。ちょっと待ってろ」
檀家さんの応対をして戻ると、洋くんの姿はもう見えなかった。
ますます胸騒ぎがする。
「流、どうした? 難しい顔をしているね」
そこに翠がやってきた。
「その……洋くんが一人で出かけたのですが、嫌な予感がして」
「なんだって? 今すぐ丈に連絡しよう」
翠が動き出す。
こういう時の翠は、凜々しい。
「ですが、病院に電話するなんて大げさでは」
「いや、しよう!」
「御意」
丈に伝えると、既に何かを察していたのか、洋くんの元にすぐに駆けつけると言って電話を切ってしまった。
俺と翠は顔を見合わせて頷いた。
「やはり二人は何か大きな問題を抱えているようだね」
「えぇ、丈は洋くんのことで何か隠しているようです」
「一人では抱えきれない程大きな問題のようだ」
「俺もそう思います」
翠が数珠を、きゅっと握りしめる。
「僕は洋くんを救いたい。そのためには丈の協力が必要だ」
「どうして、そこまで……」
「彼の放つ気から感じるんだ。洋くんは一度死にたいと思ったことがある人だ」
翠の口からそんな言葉が飛び出るとは仰天した。
「つまり死んでしまいたいと思うほど辛い経験を?」
「おそらく……だからこそ、僕は彼を救いたい」
翠が兄として僧侶として、全方向から救いの手を差し伸べようとしている。
ならば俺は翠と手を繋いで、彼らを守ってやるだけだ。
大きな流れも、抗いたい流れならば、撥ね除けてやる。
ここはそういう場所で、俺はそういう男だ。
最初のコメントを投稿しよう!