春隣 17

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春隣 17

 月影寺に、丈と洋くんがいる。  そんな新しい生活が軌道に乗った頃、いつになく覇気のない様子で洋くんがやってきた。 「……流さん、おはようございます」 「洋くん、おはよ! あれ? 目の下にクマ出来ているぞ。眠れなかった?」 「いえ、そんなことはないです」 「ははん、じゃあ丈に眠らせてもらえなかった?」  わざと揶揄って元気づけてやると、洋くんは百合の花が咲くように笑ってくれた。 「流さん、朝からふざけないで下さい」  おぉ、だいぶ打ち解けてくれたな。    やっぱり君も、笑顔の方がいいぞ。 「よし、それくらい元気があったら大丈夫か」 「……ありがとうございます」 「なぁ、無理だけはするなよ。心配事があるなら相談に乗るぞ」 「……はい」  いいか、本気で思っているんだぞ。  何かあってからでは遅いのを、俺はいやという程学んだ身だから。  あの日もあの日も、翠は「大丈夫、何でもないよ」と言って、俺の心配をすり抜けていった。その間、ずっと……胸の傷がどんどん酷くなるのに、一人で耐え忍んでいた。 「どうした? ぼんやりして……もしかして出かけるのか」 「いえ、今日は……ずっと、ここにいる予定です」  ここにいたいです。  そんな悲痛な叫びが聞こえたような。  何かに怯えているのか。  ここにいたいのに、行かないとならぬ場所があるのか。 「少し疲れているようだから、今日はゆっくりしろ。後で一緒に茶でも飲もう。前に話していたお抹茶の点て方を教えてあげるよ」 「本当ですか。ありがとうございます!」    早速、茶道具を持って洋くんのいる離れに向かうと、誰かと電話中だった。  ぼぞぼぞと暗い声。  何を話しているかまでは聞き取れない。  外で待っていると、洋くんが沈痛な面持ちで出てきた。  上着を着て、手には鞄を持っている。 「やはり出かけるのか」 「あ……そうなんです。涼のことでちょっと」  涼くんの話は、丈から報告を受けたばかりだ。あの雑誌モデルの青年は他人の空似とは思えなかったが、やはり血縁者だったのだな。 「昨日丈から聞いたよ。従兄弟のモデルやっている子が怪我して入院したって」 「はい、そうなんです。そのことで東京まで行ってきます」 「一緒に行くよ」 「えっ、いや大丈夫です。10歳も年下の従兄弟に会うのに面目が……」  洋くんは気まずそうに目をそらした。  嘘をついているのでは?  つい疑い深くなってしまうのは、長年翠の嘘に気付けなかったからだ。 「本当に大丈夫です。俺も一応男なので……」 「そうだな。悪い」  洋くんには洋くんの世界があり、自尊心だってある。  あまり介入しすぎても良くないか。    何より、洋くんには丈というパートナーがいる。  よし、ここは丈の判断に任せよう。 「分かったよ。丈にはちゃんと伝えるんだぞ。どうも洋くんは危なっかしいから心配だよ」 「……はい」 「おっと、お客さんが見えた。ちょっと待ってろ」  檀家さんの応対をして戻ると、洋くんの姿はもう見えなかった。  ますます胸騒ぎがする。 「流、どうした? 難しい顔をしているね」  そこに翠がやってきた。 「その……洋くんが一人で出かけたのですが、嫌な予感がして」 「なんだって? 今すぐ丈に連絡しよう」  翠が動き出す。  こういう時の翠は、凜々しい。 「ですが、病院に電話するなんて大げさでは」 「いや、しよう!」 「御意」  丈に伝えると、既に何かを察していたのか、洋くんの元にすぐに駆けつけると言って電話を切ってしまった。  俺と翠は顔を見合わせて頷いた。 「やはり二人は何か大きな問題を抱えているようだね」 「えぇ、丈は洋くんのことで何か隠しているようです」 「一人では抱えきれない程大きな問題のようだ」 「俺もそう思います」  翠が数珠を、きゅっと握りしめる。 「僕は洋くんを救いたい。そのためには丈の協力が必要だ」 「どうして、そこまで……」 「彼の放つ気から感じるんだ。洋くんは一度死にたいと思ったことがある人だ」  翠の口からそんな言葉が飛び出るとは仰天した。 「つまり死んでしまいたいと思うほど辛い経験を?」 「おそらく……だからこそ、僕は彼を救いたい」  翠が兄として僧侶として、全方向から救いの手を差し伸べようとしている。  ならば俺は翠と手を繋いで、彼らを守ってやるだけだ。  大きな流れも、抗いたい流れならば、撥ね除けてやる。  ここはそういう場所で、俺はそういう男だ。
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