春隣 20 

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春隣 20 

「洋くん、入ってもいいかい?」 「あっ、翠さん、どうぞ」  離れで翻訳の仕事をしている洋くんに声をかけると、花が咲くように微笑んでくれた。  だいぶ打ち解けてもらえたようで、嬉しくなる。 「どう? 仕事は捗ってる?」 「はい、ここに来てから、とても集中出来ます。ここは静かで居心地がいいです。」 「それは良かった。あっ……ここ、まだ癒えないのか」  唇の端の傷は塞がったが、頬の黒く内出血した部分は、まだうっすら残っていた。  もうだいぶ経つのに可哀想に。 「すみません。傷の治りが悪いようで」 「謝ることはないよ。ここでは人目を気にしなくていい。それに、ここに来た当初よりずっと顔色も良くなったよ」  内出血は、じきに消えるだろう。  だが洋くんが過去に受けた義父からの性暴力は、まだ重く心にのしかかっているようだ。  癒えない傷、消えない傷を植え付けられる苦痛を、僕は知っている。    僕も経験したから。  僕の胸元に執拗につけられた火傷痕は、ずっと消えないで燻っている。    踏みにじられたプライドもそのままだ。  そのことを考えると鬱々としてしまう。  だが、いつまでも沈んでいられない。  二度と付け入る隙を見せないためにも、僕は清らかな気で月影寺を内側から持ちあげて、結界を張り巡らせていく。 「ところで洋くん、今日は何の日か分かる?」 「えっと……3月3日ですが」 「そう、ひな祭りだよ」 「あ……そう言えば……そうですね」 「おいで、実はね、ここは男所帯だが洋くんの歓迎会を兼ねて、ひな祭りのお祝いをしようと流と企画したんだ」 「えっ……俺の?」  洋くんが意外そう顔をする。 「そうだよ。君が来てくれて嬉しくてね。それから……弟の丈を深く愛してくれてありがとう。兄として礼を言うよ」  丈は、見違えるほど大人になった。  愛を知った人は強い。  愛を守るために、自分の殻を抜け出し、洋くんを包み込もうと必死な様子に毎回心を動かされる。  揺さぶられるよ。  君たちが想い合う姿に心打たれる。  僕も動きたくなる。    洋くんと庫裡の前を通ると、中から可愛い声がした。  耳を澄ますと…… 「桜餅がひとつ、桜餅がふたつ~ 桜餅が……いっぱいですよぅ……でも……食べてはいけません」 「くすっ」  思わず頬が緩む。    さっきまでの暗い気持ちが払拭される。  この子の気は、本当に明るくて可愛くて良い。  天真爛漫な性格が、月影寺を明るく照らしている。 「あの……翠さん、彼は?」 「あぁ、通いの小坊主の小森くんだよ」 「通いの……ここには、丈のお父さんと翠さんと流さん以外にも人がいたのですね」 「彼は15歳の時から、僕が育てている愛弟子だよ。とても勘のいい子で……洋くんが馴染むまで気配を消していたようだね。今日は甘い物の誘惑に勝てずに出てきたようだ」 「くくっ」  洋くんが珍しく明るく声を出して笑った。  彼は儚く繊細なようでいて、時折艶めいた男らしい雰囲気を垣間見せる。  本当の君の性格の欠片だろうか。  いいね。  もっともっと君の姿を見せて欲しい。    夜空に浮かぶ月のように、いろんな面をもっていそうだ。   「どうしました?」 「あ、流……そろそろご飯かなと思って」 「食事の支度は整いましたが、参加者の準備がまだのようですね」 「え?」 「ひな祭りなのに、姫がいないのはつまらないですよ」 「流……まさか僕に女子の着物を着せるつもりか。それとも洋くんに?」  焦って問いただすと、流は豪快に笑った。 「ははっ」  人懐っこい笑顔は、昔のままだ。  余所余所しい話し方の向こう側に、今日も僕の流がいて、嬉しくなった。 「それはまたおいおいですよ。いきなり洋くんにそんなことをしたらドン引きされますし、丈に睨まれる。だから、これを作ってみたんです」     流が箱から恭しく取り出したのは、木目込み人形だった。  十二単を着た姫の顔は、僕と洋くんによく似ていた。 「我が家の雛人形ですよ。ここは男ばかりだから、ひな人形は姫二人でいいですよね」 「すごい……流さん、これ……もしかして俺ですか」 「そうだ、可愛いだろう」 「これは……母が……亡くなった母が……毎年……飾っていた人形と似ています」 「……そうか」  洋くんの口から初めて「母」という言葉が漏れた。 「……いつも雛祭りに飾って一緒に眺めていました」 「そうだったんだね」 「……母さんは姫が俺に似ていると笑って……」  僕と流は洋くんに寄り添って、彼が思い出に浸る時間を守った。  月影寺の雛祭りは、優しく懐かしい思い出に彩られていく。    
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