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春隣 21
「洋くんは飲める口か?」
「……俺は……酒にはあまりいい思い出がないので遠慮しておきます」
「……ここは月影寺。ここに入れるのは許された者ものだけだ。だから気を遣わなくていいんだぞ」
「……ふっ、流さんは勧め上手ですね」
「まぁ、これを飲んでみろ」
「これは?」
流が自慢げに取り出したのは、僕の秘蔵の桃のあらごし酒だった。
茶室の棚にそっと隠していたのに、いつの間に?
それは奈良の酒蔵から定期的に取り寄せしている物で、瑞々しい白桃をたっぷり使用しているので、まるで桃のデザートを食べているような果実感で大変美味しいお酒だ。
「兄さんも飲みますか」
「これは僕のお酒だよ?」
「ははっ、雛祭りにぴったりなので拝借しました」
「まぁ、確かに……桃だしね」
奈良の寺に父の代理で出向いた帰りに、偶然出会ったもので、とろりとしながらもスッキリと上品な甘さに、僕は密かに酔いしれていた。
このお酒にいつも心を潤してもらっていた。
もしかしたら僕は無意識に甘さを求めていたのかもしれない。
まだ届かない愛を待ち侘びて――
乾いた心を、酒の甘さで慰めていたのかもしれない。
「あ……美味しいですね」
「洋くんも気に入った?」
「俺は普段は甘い酒は飲まないのですが……たまにはいいですね。雛祭りには甘い酒が似合います」
「そうだね。何故か僕らに瓜二つのお雛様を囲んで飲むのも悪くないね」
洋くん、まだ多くは語らないでいいよ。
君の過去を無理矢理荒らすつもりはない。
ただ、話したいことがあるのなら話して欲しい。
僕らは静かに聞いて、静かに聞き流して……
静かに君と寄り添うから。
「……楽しい思い出もあったんです……母とはとても仲が良かったので」
「そうだったんだね。じゃあ雛祭り会もしたのかな?」
「はい、母は家では常にお姫様のようでした。俺が幼稚園の頃だったかな……亡き父が雛祭りに母に桜色のカーディガンを買ってきたことが……母は頬を桜色に染めて嬉しそうに、ちらし寿司を作ってくれました」
「それは素敵な思い出だね。情景が浮かぶようだ。さぁもっとお飲み。甘いお酒は心を解してくれるから……僕もいただこう」
洋くんと一緒に飲んだ。
お互いほろ酔い気分になれるまで、何杯も。
いつも歯を食いしばっていては、自分の心を傷つけるだけだ。
たまには酒の力を借りて、緊張を解してもいいだろう。
僧侶である前に、僕は人だ。
こんな考えは邪道か。
だが僕はこの道を歩む。
人の心が理解出来ぬ人にはなりたくない。
心の痛みに寄り添える人でありたい。
僕にいつも寄り添ってくれる流のように――
「洋! こんな所にいたのか」
そこにバンッと大きな音を立てて、丈が飛び込んできた。
「丈、どうした? そんなに息を切らせて」
洋くんがとろんとした目つきで、丈を見上げる。
艶めいた笑顔だ。
満開の桃の花の下で微笑絶世の美女のようで、僕まで心臓が高鳴った。
「洋……酔っているのか」
「あぁ、そうかもしれない。甘い酒はいいな。気持ちが解れて、久しぶりに母のことを思い出せたよ」
「……そうか……そうだったのか。桃色に頬を染める洋も悪くないな」
熱々な様子に、流が手で扇ぐ。
「あー アツアツのお二人さんは、そろそろ部屋に戻った方がいいんじゃねーか。ほら、丈の分のちらし寿司は折詰め弁当にしておいたぞ。酒も持っていけ」
「ありがとうございます。洋、立てるか」
「どうだろう? こんなに酔えたのは久しぶりだから足下が」
「私にもたれろ」
洋くんが丈にさり気なくもたれる様子を、目を細めて見つめた。
君は全てを委ねられる相手と出会えたんだね。
それはとても幸せなことだ。
二人が去ると、流と部屋に二人きりになった。
気まずい空気が流れそうになる。
「兄さんも、そろそろ休みますか」
「……そうだね……これ以上ここにいたら……」
「何です?」
「いや、もう部屋に連れて行っておくれ」
そっと……流の匂いを感じるまで近くに歩み寄った。
今はまだそっと香る程度だ。
やがて花が咲く。
桜が散れば庭の緑が青く茂り、しっとりとした梅雨を経て、夏がやって来る。
灼熱の太陽を浴びたら、この気持ちは勢いよく燃え上がるのだろうか。
もうすぐ何かが変わる。
そんな予感に包まれる雛祭りの夜だった。
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