色は匂へど 1

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色は匂へど 1

 茶室で雨宿りした日から、季節がまた進んだ。  だが翠との距離は一向に縮まらない。  俺が一歩近づけば一歩遠ざかってしまう。  いつまでも手に掴めない遠い存在だ。  なぁ、翠……  俺たち、もういい年だぜ。  このまま四十代、五十代と歳を重ねてしまって本当にいいのか。  俺は近頃、仙人のような日々に、干からびる程の飢えを感じているんだ。  俺の有り余る欲望の捌け口は、どこにある?  この切なく燃え上がる情熱は、一体どこへ置けばいいのか。  もう二十代の頃のように、行きずりの相手に吐き出した所では何の解決にもならない。そんなことしたくもない。  翠の匂いが、すぐ傍でするのに。  そんなある日、朝から檀家さんの家に忘れ物を届けに出かけた。    帰り道、突然雷が鳴り響き、急な雨に降られた。 「やれやれ、また雨か」  駆け込んだのは見知らぬ寺の軒下。 「ん? こんな寺、あったか……道を間違えたのか。まぁ、いいか」  俺はそこで雨が止むのを待つことにした。  濡れて帰っても一向に構わないが、少しここで休みたくなった。  何故なら古い寺の池に、蓮の花が咲いていたから。  大きな葉を広げ、美しい花を咲かせる蓮。  インドでは蓮の花を「聖者の花」と呼び、仏教とも関わりが深い。汚れた水の中で美しい花を咲かせるので、泥水のような苦しみの中でも汚れる事のない清らかな心を象徴する花とされて言われているんだよな。  それから、蓮は咲く瞬間に音が鳴るという伝説がある。  そんな音を聴いてみたいものだと耳を澄ますと、雨の向こうに人の気配がした。  袈裟に身を包み大きな雨傘をさし背筋を伸ばし歩く男は、俺の兄、翠だった。  凜としているのに儚く、それでいて気高い翠。    雨脚が強まる中、雨の飛沫で袈裟が濡れるのも構わず、真っ直ぐに泥道を歩んでいく。  その背中に背負っているものは、重そうだ。  ずっとそうやって自分で傘をさして、自分を守ってきたんだな。  硝子のように脆い心をガードして、たった一人で何もかも背負ってさ。  そう思うと居ても立ってもいられなくなり、翠の元へ駆け出した。  強がりな背中を、抱きしめてやりたい。  そう願うことは罪なのか。  色は匂へど……  けっして近寄ってはならぬのか。  雨音に俺の気配は消えていた。  翠は先を急ぎ、歩く速度を上げた。  次の瞬間、泥濘に足を取られ、翠の身体がぐらりと傾いた。  これは天の恵みだ!  俺は翠を背後からギュッと心をこめて抱きしめた。 「兄さん、転んだら袈裟が台無しになります」 「りゅ、流か……ありがとう。それにしても、いつの間に? あぁ、お前はまたこんなに濡れて」 「……傘を持っていないんです。中に入れてくれませんか」 「ふっ、さぁ、お入りよ」  兄さんが目を細めて、俺を傘の中に誘ってくれた。 「……濡れて寒いです」  言い訳しながら兄さんをもう一度抱きしめ、その芳しい匂いを嗅いだ。  色は匂へど……  このまま終わりたくない。  どうか許して欲しい。    この我が儘な愛を、どうか受け入れて欲しい。  祈るような願いを込めると、突風が吹いて煽られた。  負けるものか。  俺はここにいる。  離したくない。 「あっ……」  翠の手から傘が飛んでいく。  いや、翠自ら傘を離したのか。  俺は翠に覆い被さるように囁いた。 「いつまで待てば……いいのですか」  04647249-56cd-4a9a-aef7-8358627306b9 「……もう間もなく……花は咲くだろう」 あとがき…… 今日は表紙絵のシーンでした。 実は今日更新の文章を元に、ほしふるほたるさんに表紙絵を描いてもらったのです。やっと公開出来ました! お話は『色は匂へど……』の段へ。 いよいよ佳境です。 『重なる月』ではこの間、洋が義父に会いにニューヨークへ行ったり、松本さんのことで奔走していました。そして間もなく結婚式を迎え、新婚旅行へと…… こちらでは翠と流が結ばれるシーンが終着点です。 そこに向けて丁寧に更新していきます。 いつもスターやスタンプ、ペコメありがとうございます。 糧になっています。
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