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色は匂へど 9
嵐の翌日、雨漏りの修理のために大工を呼び相談したが、応急処置では手に負えないと報告を受けた。
「うーむ、兄さん、これは大規模な補修工事になりますね。費用もそれなりにかかりそうですので、両親に現状を見てもらった方がいいのでは?」
「うん、そうだね。一度、伊豆から戻って来てもらおう」
そんな成り行きで、久しぶりに家族が勢揃いすることとなった。
「兄さん、そろそろ到着するようですよ」
「分かった、今、行くよ」
玄関へ向かおうとすると、居間に洋くんが座っていた。
「洋くん? こんな所にいたんだね。まもなく両親が帰宅するよ」
「あっ、すみません。俺も玄関に行きます」
「では、一緒に」
「はい」
洋くんは床の間に、手に持っていた冊子のようなものを置いた。
輝く青い海の写真がちらりと見えた。
「まぁ、今日は珍しく全員揃っているのね」
「はい、丈と洋くんもいます」
「嬉しいわ。洋くんのおかげで紅をさしたように艶やかよ」
母を除くとむさ苦しい男所帯だが、麗しい洋くんが加わると華やかな場となっていた。
事情をざっと説明すると、母は潔く工事を進めようと言い、父はいつものように二つ返事でそれに追随する。
これで一安心だ。
用件が済むと、自然とお互いの近況報告会になっていく。
両親は最近伊豆の旅館で過ごすことが多かったが、今度、熱海に別荘を買うそうだ。母は詳しいことは明かしてくれないが作家を生業としているので、腰を据えて執筆したいらしい。
そして……父が住職という立場から徐々に離れようとしているのが、今日も伝わってきた。
最近は殆どの仕事を副住職である僕に任せて、母の随行に徹している。
いよいよ世代交代が近いのだろうか。
気が引き締まるな。
僕はつつがなく職務を全うし、流もしっかりサポートしてくれている旨を報告した。
すると、珍しく丈の方から話を切り出した。
「寺が大事な時に申し訳ないのですが、私と洋は来週から旅行に行ってきます」
「ほぅ、どこへ何泊位行くのか」
「3泊4日で宮崎へ行こうかと」
「まぁ! それってもしかして新婚旅行? 宮崎は私たちの新婚旅行でもあったのよ。ねぇ、あなた」
「うんうん」
父は昔を懐かしむように目を細めていた。
母はキラキラと少女のように目を輝かせていた。
僕はそんな光景を少しだけ羨ましく見つめた。
あぁ、そうか、なるほど。
洋くんが見ていた冊子は、そういうことか。
「あら翠は、何をじっと見ているの?」
「……そうか、これが新婚旅行の……だったのですね」
僕は手を伸ばして旅行のパンフレットを手に取り、じっと眺めた。
青い海に誘われるように、海風に押されるように、ぽろりと本音を少し漏らしてしまった。
「宮崎なんて……いいですね」
僕も行ってみたいです。
その言葉は必死に呑み込んだ。
すると、僕の言葉に母が反応してくれた。
「まぁ翠……あなた可哀想に。一度も行ったことないのね。母さんは最近あなたのことが不憫でならないわ。あなたには若い頃から無理ばかりさせてしまったわね。旅行といえば仏事絡みばかりで、南国に遊びに行ったことなかったわ」
「え……そうかな? でも仏門の修行も楽しいので、大丈夫ですよ。気になさらないで下さい」
僕が本音をほろりと漏らしてしまったのを、母は察知したらしい。
母は偉大だ。
子の心を読む達人だ。
急に話題が僕のことになったので、恥ずかしくなった。
僕はもういい大人で、父親でもあるのに、丈と洋くんの新婚旅行を羨ましがるなんて……はしたないことをしてしまった。
尻込みすると、母は流を巻き込む。
僕の母という人は、こういう時は止まらない。
「ねぇ、流はどう思う?」
「そうですね。確かに翠兄さんは可哀想です。俺と違って堅苦しい旅行しかしたことないなんて哀れですよ」
流が強く同調すると、母は何かを閃いたように更に大きく頷いた。
「そうよね! 私、とってもいいことを思いついたわ」
ん?
途端にしーんっと静まり返った。
丈は険しい顔つきに、流は期待に満ちた顔つきになっていたが、僕はどんな顔をしていいのか分からない。
「コホン……丈と洋くんの新婚旅行に、あなたたち二人も付いていくこと。だって三兄弟で旅行をしたことないでしょう? せっかく母さんが頑張って男ばかり三人も産んで育てたのだから、その素晴らしさを宮崎でアピールしていらっしゃいな!」
丈はぽかんとし、僕は動揺した。
「母さん、俺たちの何をアピールだって? くくくっ、あー 可笑しい! いやはや、これはまた母さんの書き物への新たな挑戦なのか!」
流は腹を押さえて転げまわってる。
「まぁ、流は失礼ね。親睦旅行だって言っているでしょう」
丈は肩を落としていたが……
申し訳ないが、僕の中ではじわじわと喜びが広がってきた。
「え……本当にいいのですか」
「もちろんよ。翠、行ってみたいのでしょう? いつも頑張っているから、ご褒美よ」
ご褒美!
確かに流と一緒に旅行できるチャンスなんて滅多にない。
視力を失っている時、葉山に一泊したのが最後だ。
「嬉しいです。まさか僕も一緒に行けるなんて」
「翠にも息抜きが必要よ。ここ最近は私達が伊豆に行ってばかりで、まだ若住職であるあなたに住職の仕事を押し付けてばかりだったから、一応悪いとは思っていたのよ。ねっ、あなた」
「そうなのだよ。翠や……私たちが元気なうちだぞ。その重たい衣を脱いで、気ままに旅なんぞ出来るのは。さぁ行って来なさい。お盆前だが、まだそこまで多忙でない。四日程なら私達だけでなんとかなる。流や丈、それに洋くんも一緒で、楽しそうじゃ。兄弟の親睦を深めておいで」
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて……行ってきます」
僕の心は、一気に大空へ上昇していく。
ここ最近のもやもやとしていた気持ちが吹っ飛んでいくよ。
心に羽がついたように、軽やかに――
そんな訳では
僕たちは四人揃って南国・宮崎のブーゲンビリア空港へ降り立った。
僕の横には流がいる。
息遣いが聞こえる程、近い場所にいてくれる。
母の閃きに最初は戸惑っていた流も、すぐに気持ちを切り替え、旅行の支度を張り切っていた。
この旅は僕たちにとって転機となる。
きっとそうなる!
僕はそうなりたい。
祈るような気持ちで、南国の青空を見上げた。
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