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色は匂へど 13
「流……今すぐ風呂に入りたい」
海から部屋に戻った途端、無性にシャワーを浴びたくなった。先ほど岩場で解き放った飛沫は波が攫ってくれたのに、まだ身体に残っているように感じるのは何故だろう?
まるで……消してもすぐに灯る流への秘めたる想いのようだ。
旅に出てから、明らかに僕は情緒不安定になっている。
ずっと感情が激しく揺れ動いている。
自制心と何もかも解き放ちたい心が行ったりきたりしている。
そのことに戸惑っている。
「兄さん、今すぐには無理そうです。洋くんが使っているので」
「……この部屋の風呂でなくてもいいから早く」
急かすように、僕らしくないことを言ってしまった。
普段なら胸の傷痕が気になって大浴場は避けたいと思うのに……流の方も何かを感じたのか普段と様子が違うようだ。
「では大浴場に行きますか。今から準備します」
「分かった。本の続きを読んでいるから仕度ができたら呼んでくれ」
僕は待っている間に、この揺れ動く心を整えるためにあえて読書をした。
ところが文章が全く頭に入ってこない。
それどころか眠い……
慣れない海で泳ぎ、あんな場所で己を慰めた疲れが出たのか、猛烈な睡魔に襲われた。
身体をシーツに預け力をふっと抜くと、まるで波間に浮かんでいるような心地になった。
眠ってしまおう。
心を休めよう。
「兄さん、起きて下さい。さぁ風呂に行きましょう。そのままでは気持ち悪いでしょう」
しばらく眠っていたのか、肩を掴まれゆさゆさと揺さぶられ、意識を戻した。
遠くから流の声が聞こえる。
だが、僕はどこにも行きたくなかった。
ただ流と二人でいたいと願った。
「もう……眠いから……無理…」
「でも、まだ砂もついているのに」
「……」
だから留まることを選んだ。
すると……上半身に何か暖かいものが触れた。
気持ちいいものだ。
もしかして身体を拭いてくれているのか。
「う……ん」
駄目だ、瞼が重たくて目を開けられない。
「んっ……ふぅ……」
誰かが僕の肌に優しく触れ、そのまま身体の一部を躊躇いがちに扱われた。
そこは誰にも触れられたことのない場所だったので驚いた。
だが……あまりに真剣に熱心に吸ってくるので、そのまま身を預けたくなった。
それに優しく温かいものだったから、少しも怖くはなかった。
それよりも僕を必死に求めてくれるのが嬉しかった。
まるで愛を植え付けられているようだ。
「あ……んっ……んっ」
変だ……
男なのにそんな場所が感じるなんて……
甘く疼く感覚が芽生え、刺激的な吸引がいよいよ気持ち良くなってきた。
冷静に考えれば僕の身体のどこを吸われているのか分かるのに、どこか一枚薄いベールがかかったような、あやふやな世界だ。
喉から必死に声を絞り出した。
「……んっ……流……なのか」
僕に触れる人。
僕が触れて欲しい人。
それは、ただ一人の人しか思いつかないよ。
だが返事はなく、忽然と気配すらも消えてしまった。
切ないよ。
寂しいよ。
やはり夢だったのか。
夢に決まっていると思いながらも、どこかで期待していた。
あぁ……先ほどの岩場での自慰が尾を引き、欲望の塊のような夢を見てしまったのか。
「流……そこにいてくれ……行かないでくれ……」
遠い昔、僕がまだ僕ではない時、とても近い人に恋をしていた。
ある日月光が降りた庭先に、長年探し求めていた人が立っていた。
僕は裸足のまま庭に駆け出し、両手で彼を抱きしめた。
だが抱きしめてみると、それは実体のない光でしかなかった。
「えっ……どこにいる? どこへ行く? 僕を置いて……逝くな」
竹林がざわめく中、その人は強い風に身体を委ね悲し気に微笑んだ。
声が……厳かな声が降ってくる。
「次の世で……『重なる月』と出逢えた時に成就させましょう。たとえ、またこのような間柄だったとしても……今度こそ、あなたは俺のものに、俺はあなたのものに……」
そんな言葉を残して、光は僕の傍から忽然と消えてしまった。
眠っているはずなのに押し潰されそうな胸の痛みを覚え、熱い涙が頬を濡らした。
こんな夢は見たことがないはずだ。
これは一体誰の夢なのか。
そうだ……これは僕が僕でない時のものだ。
それは一体いつだ?
再び闇が覆い尽くし、深い睡魔に襲われた。
今は眠った方がいいということなのか。
「流……いないのか」
そう夢の中で問うが、返事はなかった。
やはり夢なのか……
だが一つだけ夢は、希望に満ちた言葉を僕に託してくれた。
『重なる月』
この言葉だけは覚えておこう。
僕の未来を切り開き、変えていく言葉になる予感がする。
……
翠と流の前世の物語
『夕凪の空 京の香り』第4章「残された日々」とリンクしています。
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