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色は匂へど 15
僕はロビーラウンジのソファ席に、克哉くんに促されるがままに座った。
とにかく洋くんを遠ざけたい一心で、言う通りにした。
本当は一刻も早く立ち去りたいのに。
「翠さんとはあれ以来ですが、お元気そうですね」
「……そうだね、克哉くんも元気そうだね」
「まだ怒っているんですか。あれはだいぶ昔のことですし、今はお互い子持ちの父親なわけですから水に流してくださいよ。そう言えば翠さんのお子さんも男の子でしたよね」
水に流す?
よくもそのようなことを、ぬけぬけと……
膝の上で握った拳が震えた。
一体どうやって流せと?
君が僕の胸に執拗に押しつけた煙草の跡は、醜い状態で留まっているのに。
何度僕が悪夢を見たと?
そう言ってやりたいのに、突然、息子の話を出されて動揺した。
「えっ、どうして……息子のことを?」
「あぁ、兄から聞いたんですよ」
「……達哉からは君の話は一切出ないのに?」
「へへっ、兄を責めないで下さいよ。俺が強引に聞いただけですから」
「……」
達哉は悪くない。
だが、出来れば薙のことだけは知られたくなかった。
薙はあまりに僕に似ている。
あの頃の僕に――
だから一抹の不安が過るんだ。
当たり前だが、話は弾むはずもない。
「……」
増していく嫌悪感を薄めるために、飲み慣れぬカクテルを飲み干すしかなかった。
一気に酔いが回る。
後、どの位僕はここにいればいいのか。
洋くんは安全な場所に戻ったか。
洋くんは丈の元を離れるな。
そして僕の流、お前はどこにいる?
「はははっ、翠さんはカクテルは苦手なんですかぁ。急に色っぽい顔になって、そそられますよ。それにしてもこんな所で会えるなんて嬉しいですよ。宮崎へは旅行で?」
克也くんの執拗な視線に吐きそうだ。
僕をこれ以上見ないでくれ。
「……そうだよ。家族旅行でね」
「じゃあ息子さんや奥さんも一緒ですか」
「いや、そうじゃなくて……弟達と一緒だ。……流も来ている」
「えっ! それはまずいな。流が来てるなんて」
克哉くんの顔色がさっと変わり、そわそわし出した。こんな時に流の名前を出すなんて狡いかもしれないが、出さずにはいられないよ。僕は「流」の名を口にするだけで勇気づけられるのだから。
「くそっ、流が一緒なのか。それじゃ長居は出来ないな。あいつの馬鹿力で殴られるのはもうご免ですよ。しかしこんなリゾート地で、憧れの翠さんと再会できるなんて運命ですかねぇ」
僕は一刻も早くこの場を去りたいのに、克也くんがしつこく話を続ける。
あぁ……もう本当に限界だ。
「君は何を言って? 今日はたまたま君の子供が迷子になったのを助けただけで、僕にはそんなつもりはない。もともと……最初から何もなかったはずだ」
我慢の限界に達し、席を立とうとすると制された。
「またまた~ 強がって可愛いことを。覚えていますか、高校時代のあなた、本当に綺麗でしたね。大学の頃は色気も増して最高だった。初めてあなたを見つけてから二十年近く経っているのに、何も変わってないですね。その浴衣姿も白い首筋も、全部そそられる……」
克哉くんの目の奥に怪しい炎が灯ったようで、ぞっとした。思わず身を引くと厚ぼったい手が伸び、カサついた手の平でざらりと頬を撫でられ、身が竦んだ。
あまりの気持ち悪さに、全身に鳥肌が立った。
限界だ! もう無理だ!
あの時のように視界が暗くなっていくのを、必死に押しとどめようと藻掻いた。
嫌だ……流が見えない世界にはもう二度と行きたくない!
「やめっ…」
思わず叫びたくなるほどの嫌悪感!
その時向こうから長身の男性が勢いよく近づく気配を感じた。克哉くんも気が付いたようで、はっと目を見開いた。
流だ……
僕の流の匂いがする。
助かったんだ。
流が来てくれたら、もう大丈夫だ。
もう怖くはない。
「げっ! もうお出ましかよ。翠さんの騎士め!」
「流!」
「翠さん、あいつが来たから行きますよ。また殴られるのはご免だ! またの機会に」
克哉くんは逃げるように、去って行った。
僕は彼のことなど目もくれず、流だけを見つめた。
流が来てくれた。
僕の大事な弟であり、秘めやかな想い人。
どんな時も、どうか僕の傍にいてくれ。
一気に緊張が解れていく。
流が近くにいるだけで、僕はどうしてこんなに安堵できるのか。
「流……」
だから大切なその人の名を、僕は今日も呼ぶ。
「翠、大丈夫だったのか。アイツに何もされなかったのか。どうしてあんな奴と一緒にいたんだよ! くそっ‼」
「……それは」
流が興奮した様子で責め立ててくる。
動揺を隠せない僕の表情に、心配して苛立っているようだ。
こんなに激しく心配してくれるなんて……
こんな状況なのに、そのことが密かに嬉しかった。
よそよそしさを取っ払って、翠と呼んでくれた。
久しぶりに、翠と……
もっと激しく呼んで欲しい。
そう願うのに、流は必死に深呼吸して自分を宥めてしまった。
「すみません。乱暴な言葉を吐きました」
「いや……流、ごめんな。お前にまた心配かけてしまったね」
「せっかくの旅行中です。もう忘れましょう。さぁ兄さんの好きなワインを沢山買ってきたので部屋に行って、皆で飲みましょう」
またいつものトーンに戻ってしまうのか。
それは寂しいよ。
どうしたら、僕たちもっと歩み寄れるのか。
高い塀を越えるのに、この旅行は絶好の機会では?
「流、待ってくれ。えっと……ここで、少し気持ちを落ち着かせてからでもいいか。こんな顔で戻ったら丈と洋くんが心配するだろう? 今すぐには戻れないよ」
気丈に振る舞ってはいたが、膝の上で握った手はカタカタと震えていた。
「確かに……では温かい紅茶でも飲みますか」
「うん、そうしてくれ」
「手が……冷えますか、ここは冷房がきついですね」
「うん……少し寒いんだ」
「……では」
流が僕の手をそっと握ってくれた。
「紅茶が来るまで、こうしていても?」
「……うん」
昔、僕がそうしたように、今度は流が僕の手を暖めてくれるのか。
僕の胸の鼓動は、一段と早くなった。
この身を……
克哉くんに怯える身を暖めて欲しいと願っていた。
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