色は匂へど 16

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色は匂へど 16

 僕の手を、流が力強く握ってくれた。  それだけで暗黒の世界に引きずり込まれそうになった僕は、浮上出来る。  僕の中で、流の存在がどんどん大きくなっている。  流が好きな気持ちがますます溢れてくる。  もう抱えきれない程だ。  ホテルの客室に戻ると、丈も洋くんもいなかった。 「あいつら、どこに行ったんだ?」 「あっ……ここにメモがあるよ」  テーブルの上のメモには、ホテルの貸し切り露天風呂に二人で行くのでしばらく戻らないと書かれていた。  いいね。  この旅行は、君たちにとっては新婚旅行だ。    思う存分、心だけでなく肉体も求め合うといい。  人と人の肉体は繋がるように出来ている。  男と男でも、それは可能だ。  僕にも……出来るだろうか。  鼓動がまた跳ね出したので息を吐きながら、窓の外の世界を見つめた。    海上には、大きな月がぽっかり浮かんでいた。  「流、窓から月がよく見えるね」 「…………月が綺麗ですね」  流が一呼吸置いて告げた言葉にハッとした。  もしかして……その言葉には含みがあるのでは?  夏目漱石が英語教師をしていた時に「I love you」をどう訳すか生徒に問われて「月が綺麗ですね」と返せばよい、と返答したと言われているのが由来と聞いたことがある。  返答に迷っていると、月光が僕に向かって真っ直ぐに降り注いできた。  白い光を浴びながら振り向くと、真正面に流がいた。  目が離せなくなる。  見上げる程高くなった背丈。  僕とはまるで違う逞しい骨格。  大河の流れのような男だ。  僕が答えるより前に流が気まずそうに話を逸らしてしまった。 「兄さん、もう大丈夫ですか。まさかこんな場所でアイツと遭遇するなんて」 「え……あぁ、もうさっきの事は忘れよう。僕はもういい大人だ。いつまでもあんな昔のこと引きずっていないから安心しろ」  しまった……この期に及んでまた強がってしまった。  本当は身の毛がよだつ程、気色悪かったのに。 「……そうならば……いいですが」  流に全てをさらけ出してしまいたい。  今宵の僕は、そうしたいと願っている。 あともう一歩だ。  きっかけが欲しい。  僕らが歩み寄れる、僕らを動かすものが欲しいと切に願った。 「流、少し飲もうか。そのワイン飲んでみたいな」 「……そうしましょう」  僕はリビングでワイングラスを傾けた。  流はワインを飲みながらも、僕に熱い視線を送ってくる。  視線の意味を辿ってみたい。 「僕たち、同じ親から生まれてきたのに、こんなにも違う。特に流は……僕が手塩にかけたお陰で本当にいい男になった。僕は本当にこの旅行に来てよかったよ。こんなにも心を開放できたのは久しぶりだ。北鎌倉に戻ったら、またいろいろと難しいことが待っているからね」  だからこそ、今宵は絶好の機会だ。  貴重な時間が、刻一刻と過ぎていくのがもどかしい。  惜しむような気持ちでワイングラスをくっと傾けると、少し頭がぼうっとして、ふわりとした。酒に頼るつもりがないが、あと一歩、心を解放するために必要だった。 「流……聞いてくれるか」 「なんです?」 「さっき部屋で寝ている時に不思議な夢を見たんだ」 「どんな夢でしたか」 「……知らない誰かの夢だった。いやそうじゃない。僕がまだ僕ではない時のものなのだった」  その夢の内容を掻い摘んで説明した。  どうしても流と共有したかった。  ……  遠い昔、僕がまだ僕ではない時、とても近い人に恋をしていた。ある日、月光の降りた庭先で切羽詰まった僕は、その人を抱きしめた。 「いくなっ……僕を置いて」  竹林のざわめきが厳かに鳴り響く中、その人は強い風に身体を委ねながら、悲し気に微笑んだ。 「次の世で『重なる月』と出逢えた時に成就させましょう。たとえまたこのような境遇で出逢っても、今度こそ……あなたのものに……俺のものに」  そんな言葉を残して、僕の前から消えてしまった。 …… 「なっ、変な夢だろう? 眠っているはずなのに潰されるような胸の痛みを覚えて思わず熱い涙が溢れてしまったよ。とにかく酷く悲しい夢だった」  すると流が驚愕した様子で身を乗り出してきた。 「兄さん、俺は以前から似たような夢を見ていました」 「えっ、それはどんな内容だった?」 「それは……まるでその夢の対のようだ」 「えっ、詳しく話してくれ」 ーーーー 「いくなっ! 僕を置いて……」  その人とこの先の人生を共に歩めないことを悟った俺は、言葉を受け取らずに背を向け、月に逆らうように歩き出した。俺の背中を、その人は強く抱きしめ引き留めた。だが竹が風に薙ぎ倒されそうな程の強風が吹き抜け、二人を引裂くように邪魔をしてくる。  やはり駄目なのだ。天は俺達を認めない。  まして俺の寿命はもう短い。  許して欲しい。  あなたを攫っていけない俺を。  すまない。この世では無理なんだ。  あなたを、ただ悲しませてしまうことになる。  だからこそ、先の世ではあなたと結ばれたい。  俺はその時は、思うがままにあなたを抱く。  それはいつだ。  いつまで待てばいい?  彼方から返事が聴こえる。  それは夜空に浮かぶ月のような人たちが、きっと導いてくれるだろう。  『重なる月』その言葉を忘れるな。 …… 「なんてことだ。兄さんも『重なる月』という言葉を知っていたのですね」」 「いや……僕には詳しくは分からない。さっき見たばかりの夢で、僕が引き留めた相手がそう言っただけだから。とにかく悲しい夢だったから早く忘れたかったのに、目覚めても一部始終をはっきりと覚えていた。唯一見えなかったのは、相手の顔だ。ぼんやりとして……どんなに目を凝らしても見えなかった」  僕と流の夢はまさに表裏一体だ。二つの夢はもともと一つのものだったのか。ということは…… 「夢から覚めて、希望に満ちた『重なる月』という言葉が、僕たちの未来を切り開く言葉だと思ったんだ。だから知っているのなら教えて欲しい」 「『重なる月』月が重なるとは、もしかして二つの月のことなのではと考えていました」 「月とはもしかして、これのことか」  今の僕が持っている月はこれだ。  錫で作った月のモチーフがついた帯留めを取り出して流に見せた。 「あの茶会の……」 「うん、この旅行に無性に連れてきたくなってね」  これは秋の茶会で流から贈られたものだった。時間をかけて磨き上げた光沢は、月明りそのものだ。  二人でその月を見つめ、溜息をついた。  この帯留めは、今までこんなにしっとりと内から輝いていただろうか。錫からは、まるで月明りのような仄かな輝きすら感じる。    ただの不思議な夢だと思っていたが、僕が引き留めようと縋った人は、僕が愛していた人は……    最初から、いや、ずっと昔から僕は流を求めていたのか 「流、夢の中で、僕であって僕ではない人が、必死に求めていた人は……流だ」 「翠兄さん……」  生まれてからずっと一番近い場所にいたね。  いつだって見上げた先に、見つめた先には流がいた。  流の優しい笑顔が待っていた。  そんな流に弟以上の感情を抱いたのはいつからだろう?   幾度も助けて守ってくれた流に対して、強い愛情が芽生え、それが一気に膨らんできて、僕を悩ました。  実の兄弟という枷は重く、僕は流を守ることを理由に女性と結婚し、遠い遠い回り道をした。  そうか……あの夢の彼は流の前世だったのか。  『前世』……そう考えると話は一本の糸のように繋がる。  過去でどんなに願っても結ばれなかった縁があったとする。  それがこの世の僕と流に受け継がれてきたのか。  そんな夢みたいな話はあるのだろうか信じられないが、今は信じられる。    流も同じ夢を見ていたから。  僕達はこの世で結ばれても許されるのだ。  何もかも混沌としている中、分かったことがある。 『重なる月』に出逢うのは今宵。  流が僕を呼ぶ。  今までにない情熱的な声で…… 「翠兄さん……」  僕は首を振る。そうじゃない。 「……翠」  そうだ、そう呼んで欲しい。  もっと強く熱く……呼んで欲しい。 「流と……月が傾く前に出会えて良かったよ」  僕たちは一歩ずつ歩み寄った。  お互いに震える手を伸ばした。    流に向けて――    僕に向かって――  
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