色は匂へど 19

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色は匂へど 19

 食事の支度を終えたので、翠を起こすために再び部屋に入った。  部屋の明かりを付けると、規則正しい寝息が聞こえた。  甘い吐息が部屋中に充満しているようで、目眩がした。  強烈なフェロモンを浴び、このまま覆い被さり、全てをもらいたくなった。  だが、今はまだ駄目だ。  深呼吸し、翠の肩を揺すった。 「翠……翠……起きてくれ」 「ん……」  ぼんやりと目を開けた翠と至近距離で目が合い、勢いよく上半身を起こしたので、おでこ同士がゴツンとぶつかった。 「あっ!」 「痛っ!」  途端に翠の顔が真っ赤になった。 「ご、ごめんっ」  明らかに俺を意識している様子に嬉しさがこみ上げた。  その様子だと、眠る前に俺たちがしたことを覚えているんだな。  忘れられなくて良かった。  夢にされなくて良かった。  もう俺は我慢しないぞ。  二人の時はどんどん求めていくから覚悟しろ。   「皆、待っているから行こう」 そう言いながら翠の薄く開いた唇に軽いキスを落とした。チュッというリップ音に、翠の顔がますます赤く染まる。 「えっ……りゅ、流……今……何を?」 「嫌だったか」  戸惑う苦悩の表情すら艶めいて見えるなんて、相当な重症だ。 **** 「嫌……じゃない」  弟からの軽い口づけに戸惑いながらも、僕の心と身体は悦んでいた。もっともっと深く触れ合いたいと心が叫んでいた。  もう流は止まらない。  そして僕も止まらない。  そのままリビングに行くと眩しかった。世界が一変したようだ。 「翠兄さん、大丈夫ですか」 「翠さん、良かった」  テーブルには美味しそうな食事とワインが並んでいた。丈と洋くんには心配をかけてしまったらしい。 「すまなかったね。少し宮崎の熱にやられたようだ」  熱の正体は僕の横に立つ流だ。不完全燃焼した身体の奥底に燻るものが、今にも熱を帯びそうで、必死に押し込める。 「もう大丈夫ですか」 「あぁワインを飲みたいな」 「良かったです」  椅子に座ると、流が優雅な手つきでワインをグラスに注いでくれた。まるで専属のソムリエのようで惚れ惚れする。小さい頃はやんちゃで木登りばかりして庭を走り回っていたのに、いつの間にこんなに大人っぽくなったのか。  僕好みの魅力的な男に流は成長した。  流がどんなにいい男かは、一番近くにいた僕が全部知っている。視力を失っている間は身の回りの世話を全部してくれ、甲斐甲斐しくも頼もしかった。長男だから凛々しくありたいと願うのに、頼りなく揺らぎがちな僕を見事にここ数年支えてくれた。 「乾杯をしましょう。翠兄さん一言お願いします」 「うん、丈、洋くん改めて結婚おめでとう。それから洋くん、僕たちの兄弟になってくれてありがとう。僕は不甲斐ないかもしれないが、流と一緒に精一杯サポートさせてもらうよ。もうずっと共にいよう。もう離れることなく一緒に」  胸に詰まるものを感じた。どうやら遠い昔、僕は二つの悲しい別れを経験したようだ。だから僕はこんなにも皆と一緒にいたいという想いが強いのだ。  何故かそれを僕は既に知っていた。何かが僕の中で目覚めたのか、知らなかった記憶が次々に押し寄せて来る。 「俺なんかを優しい言葉で迎え入れてくれて嬉しいです。俺、ずっとここにいたいです。ずっと一緒にいて下さい」  洋くんが感極まった表情を浮かべていた。 「もちろんだよ。さぁ乾杯しよう。四人の未来に」  人と違っていても良いのだ。それぞれが求める幸せを掴めるのなら、たとえその道が世間では許されない道でも良いのだ。  もう進もう――  時は満ちた。    丈と洋くんが嬉しそうに見つめ合う様子に確信を持てた。  その後、僕たちを後押しする出来事があった。  丈がふとした拍子に浴衣の胸元から取り出した物に、僕と流は釘付けになった。乳白色の輪に手を伸ばさずにはいられない衝動に駆られた。 「触れてもいいか」 「ええ、どうぞ」 「僕も触れてみたい」  夜空に輝く月のように白い物体だ。  見ている時は冷たそうだったのに、触れると心に明りが灯るようにぽっと温かく感じた。 「一体これは?」 「これは私がソウルの市場で見つけたアンティークです。最初はペアで洋と一緒に持っていました。まるで月のように控えめに光るので、私たちはこれを月輪のネックレスと呼んでいました」 「月輪?」 「じゃあ洋くんも持っているのか」  丈が途端に、畏まった表情をした。 「空想の世界のような話なので信じてもらえないかもしれませんが……洋と私には、前世からの縁があるのです。遠い昔から求め合っていたことを、この月輪を手に入れて強く感じました」 「ぜ、前世だって?」  思わず身を乗り出してしまった。 「確かに夕凪を僕たちは知っているから。その魂の生まれ変わりが洋くんだったのではと思っていたが……本当にそんなことが?」 「月輪は私たちが離れ離れの時は呼応するように求め合い、私たちが再び一緒になれた時は二つの月輪が重なって綺麗な音をたててくれました。そう……まるでそれぞれの月輪が私達で、私たち二人で『重なる月』のようでした。あの美しい音色は今でも忘れられません」 「ちょっと待ってくれ。今なんと? か……重なる月と言わなかったか」  狼狽してしまった。まさかここで『重なる月』という言葉を耳にするなんて。 「えぇ、重なる月です。二つの月が重なるように私たちは結ばれました。実は洋が持っていた月輪はしがらみから解放された時、この世から消滅したので、現存するのは私の月輪のみです」 「そうか、そうだったのか。君たちが『重なる月』だったのか」  あの夢の暗示通りだ。 『重なる月』が僕たちを結び付けてくれると言っていた。 ……  夜空に浮かぶ月のような人たちが、きっと導いてくれるだろう。 『重なる月』その言葉を忘れるな。 …… 「翠兄さん? 顔が真っ青ですよ」 「その月輪を、もう一度よく見せてくれ」  僕は震える手で受け取り、ハッとした。 「流、さっきのあれはどこだ?」  流が錫で作った僕のための月を模った帯留めのことだ。 「これのことですね」  いつのまにか洋くんが、窓辺の絨毯に落ちていた帯留めを拾って見つめていた。 「さっきから月輪みたいに光っている物が落ちているので、気になっていたのでえす。でもこの帯留めが光っているのではなく、月明りを静かに反射していたのですね」 「貸してくれ」  僕は帯留めの月の部分を取り外し、震える手で、丈の月輪の真ん中へと埋め込んだ。  スッ……  音がするように吸い込まれた気がした。  まるで最初からそこに入るために作られたかのように、しっくりと収まった。 「あぁ、これでようやく満月に……月が満ちた……」  洋くんは感激していた。  錫の月が、乳白色の月輪に抱かれるように収まっていた。 「この月輪を翠兄さんに譲ってくれないか」 「えっ?」 「お願いだ。そうして欲しい」  僕も一緒になって頼むと、丈の答えは望むものだった。 「実は丁度洋とこの月輪について話していた所なので驚きました。この月輪はもう私たちに不要で、次の所へ行きたがっていると。そうか、行先は翠兄さんだったのですね、もちろん翠兄さんの物にして下さい。洋、それでいいか」 「丈、もちろんだよ。月輪が大事そうに錫の月を抱いているようだ」 『重なる月』に出逢い、僕たちのそれぞれの想いが繋がって満ちていくのか。  流と僕が、兄弟の枠を越えて求め合う理由が分かった。    僕は流と、この世界で結ばれるために存在していたのだ。  兄弟で生まれてきた意味を知る。  一番近い場所で最初から一緒に。  今宵、月は満ちた。  僕たちの長年の想いも満ちる。  手のひらの満月は僕だ。    流、僕を今宵抱いてくれ。  流のものにしてくれないか。    心を込めて流を見つめると、流も力強く頷いた。  今宵、満月の夜、僕は流に抱かれる。
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