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枯れゆけば 12
泣いたらすっきりした。
もうあと少しで家に着いてしまう。
早く心を静めなくてはいけない一心で、僕は俯いて黙々と歩いていた。
山門の手前の砂利道は街灯も消え真っ暗だ。
前をよく見てなかったせいで、誰かとドンっと思いっきり正面からぶつかってしまった。慌てて相手を見上げると、最初に見えたのは中学の制服だった。
胸元のシャツの校章が目に飛び込んでヒヤッとしてしまった。何故ならさっき僕を無理に抱きしめたあの制服だったから。
「……っ」
でも顔を見たら、すぐにほっとした。
僕がぶつかった相手は大事な、大事な弟だった。
「流っ」
「兄さん、遅かったな。みんな心配してたよ。母さんが探して来いっていうから」
「あっ……ごめん。友達の家に寄っていた」
「ふぅん、いつも部活がない時は真っすぐに帰宅するのにって、皆心配していたんだぞ。そういう時は連絡位しないと」
「うん、ごめんね。流にも心配かけて」
本当になんという失態だ。今日は早く帰ってやりたいことが沢山あった。
父さんと一緒に仏門の修行をしたかったし、流や丈の勉強を見て、学校での様子を聞いたりしたかった。
達哉には悪いが今日はやはり行かなければよかった。そうしたらあんな嫌な目に遭わなかった。達哉の弟は、どこか底知れぬ恐ろしさを持っていた。初対面の人に申し訳ないが、正直もう会いたくない人物だった。
その時、僕の顔をじっと流が見つめているのに気が付いた。
「流、どうした?」
「……兄さん……もしかして……泣いたのか」
「えっ、なんで?」
「ここが赤くなっているからさ」
そう言って流が、僕の頬の上へ指を伸ばしてきた。
「あっ……」
さっき達哉の弟に触られた時は寒気がするほど嫌だったのに、流に触れられるのはむしろ心地良かった。どうしてこんなにも違うのか。僕の方からいつも先に流に触れていたので新鮮な驚きだった。
幼い頃、弟の丈が気難しい所があり母がてこずっていたせいもあって、流は家族の中で中途半端に放置されることが多かった。
そんな流を、僕はいつも守ってきた。
歩く時は必ずぎゅっと手を握ってやり、時には一緒の布団で抱き合うように眠り、正座が苦手な流の痺れた足もよく擦ってあげた。
幼い頃の流は本当にあどけなく可愛くて、いつも抱きしめてあげたくなった。それは僕の方も流と触れ合っていると、優しく暖かい気持ちになれたんだ。
「まっ、まさか、泣いてなんかないよ。今日は風が強くて目にゴミが入って、だからさっき擦ったせいだ」
我ながら……下手な言い訳だ。
涙を拭きもせず流し続けたせいで、頬の上がヒリヒリとしているのは自分でも分かっていた。
「本当に? ならいいけど……とにかく早く帰ろう」
信じられないといった目で、流に見つめられて、何もかも弟に見透かされているような気持で居たたまれなかった。でも見て見ぬふりをしてもらえてほっとした。同時に無性に流の温もりが欲しくなってしまった。
だからなのか、スタスタと前を歩いて行ってしまう流を呼び止めて、思わず手を繋いでしまったのだ。
「流、待って」
手を繋ぎたかった。
小さい頃のように、今は流と触れていたかった。
ただそれだけの気持ちなのに、幸せが流れ込んできた。
「にっ、兄さん?」
「ほら、昔はよく繋いだだろう。流はすぐにどこかに行ってしまうから」
「何言ってんだよ? もう俺は迷子になんてならないよ」
「分かってる。でも少しだけいいだろう? たまには昔みたいに兄らしいことさせてくれ」
「はぁ、なんか恥ずかしいな」
「誰も見てないよ」
「……兄さんは……全く」
「何?」
「いや、ほら早く行こう」
久しぶりに触れた流の手のひらの温もり。ドクンドクンとおおらかで温かい血潮を感じる。これが今の僕が欲しかったものだ。もう大丈夫。
こうやって流と触れていると心が凪いでいく。
流のお陰で母屋の玄関に着く頃には、ざわついていた心もすっかり落ち着いていた。
僕にとって流はかけがえのない存在だ。
しみじみと確信した。
流のいない人生なんて考えられない。
いつも一緒にいて欲しい。
兄と弟、いつまでも仲良く。
ほんの少しの違和感はねじ伏せ、僕は流を見つめた。
「なんだよ? じろじろ見んなって」
「ふふっ、流はやっぱり可愛いね」
「可愛いじゃなくて、カッコいいだ」
「はいはい」
凪いでいく。
弾んでいく。
流がいる、それだけで世界が明るくなっていく。
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