幼き日々 1

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幼き日々 1

 俺にとって、翠兄さんの記憶はいつが初めだろうか。  記憶を辿ると、いつも浮かんでくる光景がある。   「りゅう、みえる?」 「うーん」 「こうしたらみえるかなぁ。よいしょっと」 「わぁ」 「じっとしていてね」 「うん‼」  俺は翠兄さん抱っこされていた。  兄さんだってまだ小さいのに、一生懸命してくれたよな。 「ほら、みて。あのこが、ぼくたちのおとうとだよ」 「お……とーと?」」  ガラスの仕切りに、楓のような小さな手をぺったり押し付け、その向こうにいる赤ん坊をじっと眺めた。  透明のガラスの向こうに眠っていたのは、小さな赤ん坊だ。  あれは二歳年下の弟、丈が生まれた日だった。  数日後、母さんが入院していた部屋に、赤ちゃんがやってきた。 「かーたん、だっこ」 「流はもうお兄ちゃんでしょ。ちょっと待っていて、赤ちゃんにおっぱいあげないと」 「でもぉ」 「ほら翠をご覧なさい。ちゃんと大人しく待ってるでしょ」 「ふんっ!」  その日を境に、俺の周りは少しだけ変わった。  両親と兄と四人の世界が、少しだけ歪んだ。 ****  月日は流れ、俺たちは三兄弟はスクスクと成長した。  (すい)12歳、(りゅう)10歳、(じょう)8歳  その頃は夏休みを利用して北鎌倉の山奥にある『月影寺(つきかげでら)』に家族で滞在するのが、張矢家の恒例となっていた。 「あぁやっと着いたわ。こっちは都内に比べたら少しは涼しいわね」 「あぁ本当だ、さぁお前達、まずは仏様にお参りに行くよ」  あーあ、もうずっとだ。  毎年夏休みになると、北鎌倉のじいちゃんばあちゃん家に連れて行かれる。  それで夏休みの間中、ずっとここにいるんだ。  東京で友達と遊びたい!  学校のプールに行きたい!  友達の絵日記にはデパートでおもちゃを買ってもらったとか、旅行で北海道へ行ったとか、楽しそうな内容が並ぶのに、俺はずっとこの寺にこもりっきりだ。  今年もこんな田舎で夏休みをずっと過ごさないといけないなんて、本当につまらない。 「流、また怒っているの?」  俺のムスッとした顔に気付いた翠兄さんが、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。 「だって、ここじゃ遊ぶ友達もいないからつまらないよ。もうこんな所来たくないよ」 「流……でもおじいさまやおばあさまも楽しみに待っていらっしゃるし」  翠兄さんは少し困ったような表情を浮かべた。 「退屈だ! 誰も俺と外で遊んでくれない。弟は暗くて本ばっかり読んでるし、翠兄さんだって、外では全然遊ばないじゃないか」 「流……そんなことないよ。よし、じゃあ今日は僕が外で一緒に遊ぶよ。なっ、それならいいだろう」 「本当? やった! 約束だよ!」  嬉しかった。  俺は二歳年上の翠兄さんがずっと大好きだ。  どうしてこんなに好きなのか分からないが、いつだって俺を大事にしてくれて、弟が出来て両親の愛情が1/2から1/3になった時だって、何も変わらず、いや今まで以上に、俺の傍にいてくれたからなのか。  もしかしたら母さんに俺の面倒を頼まれただけかもしれないが、兄は時に辛抱強く、いつも優しく、俺の手を引いてくれた。 「さぁ入りなさい。おじいさまに挨拶をして」  東京から夏休み中過ごす大きな荷物を背負い、ようやく到着すると、決まってまず最初に寺の本堂と呼ばれる広間へ挨拶に行かされる。  家の床とは全然違う黒く光る厚ぼったい木の床。天井から煌びやかな布が垂れ下がり、線香のにおいが立ち込める空間の座布団に座ると、そこはいつも過ごしている世界とは別世界だった。 「おお、お前達よく来たね。それにしても随分大きくなったな。翠はますます賢そうに……これは将来が楽しみだ。それに引き換え流……その傷はどうした? また喧嘩したのか。まったくお前は…… それと丈は……まぁいつものようだな」  法衣を着た祖父が目を細めて、俺達三人を見比べて一人で頷いている。  どうせ俺は兄さんのように優秀じゃないし、弟のように大人しくもない。喧嘩っ早いし、勉強も好きじゃない。 「それにしても流は学校で一体何をしているのだ? その頬の傷は殴り合いか。足も怪我してるな。流や……すぐにカッとして手を出すことは良くないぞ。まず心を落ち着かせるのだ。仏様の教えでは……」  ヤバイ! いつもの祖父のお説教が始まる。  あーあ、これは一時間コースだな。    暫くすると案の定、正座が耐えられず足がしびれ出した。  イテテ……  助けを求めるようにそっと隣の翠兄さんを見ると、すっと背筋を正して座っている。その横顔が本堂に射し込む優しい陽だまりに溶け込んで行くように、柔らかく優し気だと思った。  俺の視線に気が付いた兄が心配そうにこちらを見つめてくれるのが嬉しかった。まるで兄の優しい瞳の中にすっぽり入り込んだような心地になる。 「流、大丈夫? 足また痺れちゃったの?」 「うぅ、もう限界だよ」 「しょうがないな。ほら、もう少しだから頑張れ」  小声でぼやくと、周りの目を盗んで、兄がそっと俺の痺れた足を手で擦ってくれた。優しく撫でるような手つきが、驚くほど心地よかった。  足が痺れた時によくしてもらうことなのに、何故か撫でられた足だけでなく、体中からドバっと汗が噴き出しドキドキした。  更に心臓までドクンドクンっと大きな音を立て始めたので、いよいよ驚いてしまった。  なっ、なんだよ!  これ……この気持ちって。
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