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枯れゆけば 17
「おはよう。母さん、兄さんは?」
「あら 珍しい。流が一人で起きて来るなんて。翠なら、もうとっくに登校したわよ。今日は朝早くから文化祭の準備があるそうよ」
「ヘぇ、随分早くに出たんだな」
俺は結局よく眠れなくて、いつもより早い時間に朝食を食べた。
「それにしても、今日はお寺で大きな法要があって忙しいから、あなたが文化祭を観に行ってくれると聞いて助かったわ。翠、嬉しそうに話していたわ。あとで話を聞かせてね」
そうか、兄さん、俺が来ること嬉しいのか。
その一言で元気が出る。
「分かった。そうだ丈は?」
いつも食卓の端っこで本を読んでいる姿が、見えなかった。
「あの子は今日は横浜まで模試を受けに行ったわ」
「また?」
二歳年下の弟は小学6年生で受験生だ。
医学部への合格率が高い私立の中高一貫校を目指している。なんと無事に合格したら中1から千葉で寮生活になると聞いている。
俺だったら絶対に嫌だね。
翠兄さんと離れるなんて。
だが……もともと俺達兄弟と馴染まない丈には、それがいいのかもしれない。
本当にいつまで経っても余所余所しい弟だ。いや、もしかしたらそんな風にしてしまったのは俺のせいかもしれな。俺がいつだって翠兄さんに夢中で独り占めしたくてしょうがないガキだから。
さてと、約束の待ち合わせ時刻は13時。
兄さんとの約束は絶対に守る。
こんなに早く起きてしまって、午前中、暇だな。
色々考えたあげく持て余す体力を発散したくて、庭を走ることにした。
もう十月だ。
季節はすでに秋を深め、この庭の木々もどんどん色づき、やがて枯れていくだろう。以前、秋に寺を訪れた時、山一面が燃えあがるように紅葉していたのを思い出す。
今の俺の気持ちも、まさにそうだ。兄のことを考えるだけで、心が火照り燃え上がっていく。どうしようもない。この切ないほどの気持ちは、一体どこからやって来たのだろう。
はぁ……
走るのをやめて、遠くの山を静かに眺めた。
****
「翠、こっち、こっち」
「達哉、衣装を持って来てくれてありがとう」
「ほら、着替えるぞ」
ホームルームが終わるなり、達哉に手を引かれて体育館の更衣室までやってきた。
「えっ、もう着替えるの?」
「何言ってんだよ。ほら、みんなもう着替え始めているぞ」
「……そうか」
更衣室を見回せば、予想よりも多くの男子学生が騒ぎながら女装を始めていた。わざと外してごっつい身体に破れそうなセーラー服とか、結構念入りに化粧して化けていく人もいて、ごった返している。ギャーギャーと騒がしく、活気づいて楽しそうな様子にほっとした。
そうか、女装は僕だけじゃないんだ。これなら僕もそう目立たないだろう。僕だけが見世物になるわけではない。
そう思うと少しだけ肩の荷が降りた。
****
「どうかな?」
声をかけられて、はっとした。
翠は更衣室で手際よく巫女装束を身に着けた。
弓道部で袴や着物には慣れているせいなのか、素早かった。
「うわっ、違和感なさすぎ」
巫女の衣装は、まだカツラやメイクをしていない素のままの翠にもとてもよく似合っていた。
翠は、美しく儚げな外見に反して、凛とした意志を持ち、長男らしく堅苦しい程の真面目な面を持っている。
中学の時、初めて出会った時はまだ少女めいた可憐さを持っていたが、今は違う。華奢で線は細いが、寺の跡を継ぐことを覚悟したせいか、本当に凛々しく男らしい一面もある。
同じ男として、惚れ惚れするほどだ。
だから本当は気高い翠に、こんな風に女装なんてさせたくなかった。
それが本心だった。
「達哉どうした? やっぱり変か」
「あぁ……カツラは?」
「うん。今つけるよ。でも……やっぱりメイクはしなくてもいいかな」
「あぁ、しなくても充分綺麗だからいらないよ」
これも本心だった。
かえって口紅なんかつけない方が綺麗だと思った。
「良かったよ。本当言うと口紅の匂いが苦手でね」
目元に笑みを湛え、少し肩を竦める様子に愛おしさが込み上げてしまう。
眩しい……翠が眩しい。
おいっ、俺は翠相手に、一体何を考えてんだ。
慌てて自分の頬を両手でバチンっと叩いた。
「何?」
「いや、活を入れたのさ!」
「ふふ、よし、僕も活を入れるよ。頑張ればご褒美が待っているからね」
「ご褒美って?」
「午後は弟が文化祭に遊びに来てくれるんだ。弟も同じ高校に入って欲しいから勧誘もかねてね、一緒にまわるんだ」
「へぇ、相変わらず仲良し兄弟だな」
「大事な弟だからね」
翠は弟の話をする時が、一番いい顔をする。
俺は翠の笑顔が好きだ。
だから、この親友の笑顔を守りたい。
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