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届かない距離 1
中学二年生の時に行った兄の文化祭が、遠い昔のように感じる。
あれから月日は瞬く間に過ぎ去っていった。
だが、兄と俺との間に『兄弟』以上のものは、当たり前だが何も生まれていなかった。
必死の努力も虚しく、俺の高校受験は散々な結果で終わった。
夢は破れ、憧れの兄と同じ高校に通うことは叶わなかった。
俺は地元の県立高校へ入学し、兄はそのまま私立中高一貫校の高校3年生になっていた。そして末の弟の丈は中学受験で私立の志望校に無事に合格し、千葉の学校で寮生活を送っている。帰省するのは夏休みと冬休みだけなので、あいつと顔を合わす機会はめっきり減っていた。
俺の通う、さして偏差値の高くない高校へは、腐れ縁のように兄の親友の弟、克哉も一緒に進学していた。克哉は相変わらず軽薄だが、それなりに男らしい風貌なので、クラスのリーダ的人物になっていた。
「流またまたヨロシクなー! ここでも一緒だな」
「はぁ……まったくまた克哉と同じクラスかよ」
「お互い兄に似ず駄目駄目同士だな。ははっ。あっ流、お前の兄貴は元気か」
「おい? 翠兄さんのことを、何でお前が気にするんだ?」
「えー だって忘れられないんだよ。俺の初恋の麗しの巫女さんにそっくりだからかな」
「……おい、まだそんな昔のこと言ってるのかよ」
「ははっ、それよりこれは内緒な。俺、男もいけたんだぜ」
ニヤニヤと自慢するように言われたが、一瞬意味が分からなかった。
「はぁ? それってどういう意味だ?」
「だから、女だけじゃなくて男も抱けたってことだよ」
「お前っ! まっ間違っても翠兄さんを、そんな目でみんなよ!」
「分かってるてって~ 流ちゃんの言うことなら、ちゃんと聞きますよぉ」
「はぁ……お前なぁ」
愉快そうに肩を揺らす克哉の顔を、俺はじっと睨んだ。
女癖が悪く中学の時から年上相手にやりまくっているって噂は耳に入っていたが、まさか男もって、そんな軽々しく吹聴するなんて信じられない奴だ。
克哉という人間は、読めない奴、信頼出来ない奴だと、その頃から思い始めていた。
だが、その時はその話を結局笑い飛ばしてしまい、後々厄介なことになるとは、当時は夢にも思っていなかった。
****
季節は更に巡り、高校一年生の三学期となっていた。
「流、仕度出来た?」
高校が別々になったことにより、兄と一緒に通学できる距離は更に減ってしまった。中学生の時の半分くらいだ。
寺の中庭を歩きながら、兄をそっと盗み見するのが相変わらず日課だ。
兄は18歳、俺は16歳。
俺は高校で更に身長が伸びて今は184cm。兄だって男にしては低い方ではなく173cmはあるようだが、俺と比べたら10cm以上の身長差だ。
兄は相変わらず綺麗な顔だちをしていて、ここ最近受験のやつれのせいで艶っぽさすら感じてしまう。本当に年を重ねるごとに洗練され綺麗になっていく。
男なのに。
兄なのに。
同じ兄弟とは思えない外見上の差が、どんどん深まってきている。
これじゃ……傍から見たら、絶対に俺の方が年上だと思われるな。
兄の綺麗な口元は、今日はマフラーに埋もれて見えない。でも白い吐息がまるで霞みのように、凍てついた空に立ち上がっていく様子が幻想的だった。
兄の栗色の髪に粉雪が静かに舞い降りる様子も絵になるなと、一人感心していた。
「んっ、どうした?」
ヤバい!
俺の視線を感じたらしい。
兄に黒目がちな眼でじっと見つめられると、途端に恥ずかしさに埋もれたくなる。
「ええっと、兄さん、受験もうすぐだなっと思ってさ」
「あぁそうだね。緊張するな」
「兄さんでも緊張するのか」
「当たり前だよ。第一志望に受かればいいんだけどね」
「……」
第一志望は京都の大学だと聞いて衝撃を受けた日の夕食は、食べた気がしなかった。
兄さんがこの家からいなくなる? そんなことあるのか。途端に不安が押し寄せて来た。
生まれてからずっと傍にいてくれた兄さんがいなくなったら、俺は生きていけるのか。大袈裟だがそこまで悩んでしまった。
「流? 聞いている?」
「あっ、ああ、でも第二志望の大学も良さそうだ」
「うん、そうだね、そこなら東京の大学だから、ここから通えるんだ」
(そうしたらいいのに……そうなって欲しい)
思わず……蚊が泣くような小さな声で呟いてしまった。
聞こえたのだろうか。
兄はふわっと微笑んで、俺の肩を優しく叩いてくれた。
「大丈夫だよ。流」
兄の何もかも理解してくれているような優しい言葉に、何故だか胸が詰まる。
あの日、俺は確かに『枯れゆけば…』の歌に誓ったのに、自分を磨きたいと思っていたのに、まだ何一つ変われていないような気がした。
高校に落ちて目標を失い、自堕落な生活を送っている自分が無性に恥ずかしくなった。
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