届かない距離 7 

1/1
前へ
/239ページ
次へ

届かない距離 7 

「兄さん、どうしたんだ? 大丈夫か!」 「ん……ごめん、熱があるみたいで……流……悪いけど……氷枕を……作ってきてくれないか」   兄さんの肩を支えてこちらを向かせると、熱が高いらしく潤んだ目で熱い吐息だった。  それだけ言うので精一杯だったようで、再びガクッと俯いてしまった。 「兄さん! しっかりしろよ」  俺は慌てて母屋に行き、氷枕と水と体温計を持って来た。 「兄さん、ほらっ、熱を測れよ」 「ん……」  熱のせいでとろんとした表情で俺にもたれかかる兄さん。  熱は余裕で39℃を超えていた。 「うわっ! ヤバいな。すごい熱じゃないか。母さんを呼んでくるよ」  立とうとした俺の手を、兄さんが掴んだ。どこにこんな力がと思うほど、しっかりとした熱い手だった。 「大丈夫だ。寝てれば治るから……母さんは……朝まで起こさないで……」 「だが!」 「お願いだ、流」  今度ははっきりとした口調でぴしゃりと言われ、俺も閉口してしまった。  参ったな。こんな時にも長男気質っていうか……本当に兄さんって人は、生真面目すぎる。 「……分かったよ。その代わり俺が朝まで看病するから、安心して寝てろよ」 「ん……それがいい」  そう言った後は、意識を失うように眠ってしまった。いや正確には眠っていない。高熱にうなされ、吐く息も熱く、その薄い胸板を何度も上下させていた。  兄さんの頭をそっと持ち上げ氷枕を差し込んでやり、額に絞った手ぬぐいをのせてやった。すぐに兄さんの熱で温くなってしまうので、何度も何度も取り替えた。  やがて徐々に東の空が白んで来た。 「うっ……寒っ…」  ブルブルと震える兄さんのか弱い声に、うつらうつらしていた俺ははっとした。額に手をやると熱がまたぐっと上がっていた。  いたたまれない。気の毒過ぎるよ。  昨日のショックが引き金になったのか。  なにも京都へ受験に行く日に、こんな高熱を出さなくてもいいのに。  俺の部屋から毛布を持って来て、かけてやった。  本やドラマで見たが、こういう時は裸で抱いてやるといいそうだが……そんな不埒な考えを、熱でうなされる兄さんを前にしてしまった自分にがっかりした。  結局朝になっても熱は上がる一方で、体温計が39.6℃を計測した時は流石に慌てて母さんを呼びに行った。 「大変! 酷い熱じゃない。どうして夜中に起こしてくれなかったの?」 「……兄さんがそうしろって」 「……とにかくお医者様を急いで呼んで来て頂戴」 「分かった。行ってくる」  俺達のかかりつけ内科の医者は、往診もしてくれる。とにかく兄さんは今自分で立てる状態ではないのだから助かる。  慌ててコートを着て外に出ると、昨夜からの雪が降り積もり、寺の庭は見事に雪化粧をしていた。そのまま山門の方へ向かうと、見慣れた人がぽつんと立っていた。 「達哉さん?」 「あ……流くんか……おはよう」 「一体、今更、何しに来たんですか」 「……昨日はすまなかった。これ……翠の忘れ物」  達哉さんが手に持っていたのは、兄さんの辞書とマフラーだった。  こんなのっ! 今更遅いんだよ。  この辞書のせいで兄さんはあんな目に遭ったというのに! 「翠は今日は京都に受験に行く日だろう。頑張れって伝えてくれ。それからこれ、うちの寺のお守り」 「……」 「悪いが、少し翠に会えるか」  達哉さんも昨日翠兄さんと克哉の間に何が起きたのか、薄々気が付いているのか。こうやって届けてくれたり気遣ってくれるのだから、決して悪い人じゃない。  克哉とは別人格だ。  それは分かっているが、今はどうしても許す気にはなれない。 「悪いけど……今日は帰ってもらえますか。これは俺から渡しておきます」 「そっか……じゃあ……せめて翠に本当に悪かったって伝えてくれ」 「……もう帰ってもらえますか」 「分かった」  達哉さんは頭を下げて真摯に謝ってきた。  だが大人げない無下な一言で、彼を退けてしまった。  やっぱり許せない。  辞書とお守りだって……こんなもん渡すもんか! 忌々しい!  ただ兄さんがしていたマフラーだけは自分の首に巻いてみた。  すんと深く息を吸い込むと、兄さんの爽やかな匂いが立ち込めた。 「兄さん……」  達哉さんが見えなくなったのを確認してから、俺は雪道を一目散に走った。足が雪に埋もれ転びそうになったが、とにかく一刻も早く医者を呼んであげたかった。
/239ページ

最初のコメントを投稿しよう!

882人が本棚に入れています
本棚に追加